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第9回 美食の都パリで天才料理人に出会う

フランス語の歌劇を連作。年金裁判起こし、37歳で引退

  • 水谷 彰良

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2007年12月26日(水)

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4) 美食の都パリ、ロッシーニとカレーム

 ロッシーニは7年間に及ぶナポリでの活動に終止符を打つと、1822~23年にウィーン・パリ・ロンドンを訪問し、大歓迎を受けた。30歳にして名実ともに世界最高のオペラ作曲家となった彼は、ヨーロッパの最先端をゆくパリに活動の場を移すことにした(フランス政府との契約は1824年11月26日に結ばれた)。

 新国王シャルル10世の戴冠を祝う喜歌劇《ランスへの旅》(1825年)で颯爽(さっそう)と登場したロッシーニ。時を同じくして、パリでは空前のグルメ・ブームが巻き起こる。そしてこのブームを通じて、美味追求が芸術や学問と同質の文化的営みと理解された。美食学(ガストロノミー、gastronomie)の誕生である。

アントナン・カレームの肖像

アントナン・カレームの肖像

『19世紀フランス料理技術』の扉

『19世紀フランス料理技術』の扉

 ブリア=サヴァランの『美味礼賛』(原題『味覚の生理学』1826年)出版に象徴されるグルメ・ブーム。その只中に身をおくロッシーニは、オペラ座のために年1作の歌劇を作曲するかたわら、「パリ随一の食通」の名声を得る。そのきっかけとなったのが、天才料理人カレームとの出会いである。

 フランス料理を芸術の域に高めた天才、それがアントナン・カレーム(Antonin Carême、1784~1833)である。子沢山の貧乏な家庭に生まれ、無学のまま 9歳で路上に置き去りにされた彼は、安食堂の見習いから身を起こし、料理人として頭角を現した。やがて食通の外務大臣タレイランに評価されて王宮の厨房を任されると、各国の王侯貴族と外交官を美食でもてなし、これを籠絡する政治的役割をも担った。そして皇太子時代のイギリス国王ジョージ4世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、パリの名門ロートシルト家[ロスチャイルド]のシェフを歴任し、「諸王の料理人、料理人の王」と呼ばれる栄誉を得たのだった。独学で建築学も学んだ彼は、菓子で作った円柱やトロフィーでテーブルを飾り、その食卓演出はすべての美食家をうならせたと言われる。

 ロッシーニはロートシルト家の調理場を頻繁に訪ね、天才シェフと美食談義を楽しんだ。後にカレームは『回想録』(未完、1833年)の中で天才作曲家ロッシーニから受けた厚遇に感謝し、アメリカ旅行が話題になったロッシーニが「行ってもいいよ、カレームが一緒ならね」と言ってくれた、と誇らしげに記している。

 その遺著『19世紀フランス料理技術』(全3巻、1833-35年)にも、2種のロッシーニ風料理のレシピが掲げられている。その1つを挙げておこう。

●野鳥のピュレのポタージュ、ロッシーニ風
  Potage de purée de gibier à la Rossini

 ミルポワ(mirepoix、賽の目切りにした香味野菜)の中で上等のうずら12羽を煮て、煮汁の中で冷ます。次にこれを切り身にし、とさか少々、鶏の腎臓、1ダースのキノコ、同数のオリーヴ形に切ったトリュフと共にスープ用蓋付き容器に並べる。〈野鳥のピュレのポタージュ、ア・ラ・ロワイヤル〉の項で説明した雉のピュレとコンソメを注ぐ。コンソメは規則に従って作られたものでなければならない。

(カレーム『19世紀フランス料理技術』第1巻より)

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