自嘲気味に、自らを“イモ屋”と言う。
身長180センチをゆうに超える長身。ワックスで固めた髪を無造作に立て、黒のジーンズに皮ジャンを着こなした風貌は、どこかしらロックミュージシャンを思わせた。それが洒脱に見えるのは、生粋のハマッ子だからだろう。

(写真:山本 雷太、以下同)
※編注:写真はすべてイメージで、記事中の事象に関係するものではありません
だが、彼は焼きイモ屋だ。それも、ちょっとワケありの。
彼と知りあったのは、一年前のいまごろだった。
そのとき、彼は森野徹と名乗った。親しくしている同業者から一字ずつを拝借した偽名だとのことだ。ワケありだから本名は勘弁してくれと言って笑った。39歳。妻子はなし。自称ガールフレンドは多数。これは嘘ではないらしい。屋台をひくようになって、ちょうど四年目のシーズンを迎えた冬のことだった。
彼が屋台をひいていたのは、山下公園から横浜みなとみらいを中心とした一帯だった。皮ジャンという目だつ出で立ちで、荷台に焼き釜を載せた軽トラックのハンドルを握っていた。そして、ルーフに取りつけたスピーカーからはお馴染みのフレーズ。
いしやぁきいもぉ〜、やぁきいもぉ〜。
おいもぉ〜、おいも、おいもだよぉ〜。
焼きイモは冬の風物詩だ。だが、皮ジャンとは何と不釣りあいに映るのだろう。
地元の国立大学を出て、一度はホテルに勤務した。日本でもトップスリーに数えられる老舗高級ホテルだ。ホテルを辞めたのが20代の後半。コンピューターが好きで、独学でプログラミングを覚えた。それがきっかけでソフト開発会社を興したという。バブル景気に翳りが見えはじめた時期ではあったが、需要はかなりあった。年収は一気に2000万を突破し、当時は山下公園の真ん前にあるマンションにも住んでいた。
躓いたのは、事業の手を拡げすぎたからだという。
彼はレストランの経営に乗り出した。横浜市内にあるホテルの一階にテナントしていた店だ。ホテルマン時代、彼は研修ですべての部署に配属された。フロント見習いもすれば、ルームサービスの心得も学んだ。もちろんベッドメイキングの仕方もだ。バーラウンジではカクテルのつくり方も習った。
そのとき、飲食業という職種に興味をもったらしい。客に料理を提供するのはとても面白いと。レストラン経営は、独立して順調に業績を伸ばす会社と自分への褒美でもあった。飲食店を経営してみたかったのだ。
経営権の譲渡やホテルとのテナント契約、それに開店準備で、彼は1000万近い金を使っている。懐の痛む金ではなかった。だが、バブル崩壊の序曲が耳元で奏でられていることに彼は気づいていなかった。
「ほとんど居抜きで譲り受けたレストランだけど、改装にはちょっと奮発したかな。厨房のスタッフにもそのまま残ってもらったし。客の入る店じゃなかったけどさ、ソフト開発のほうがうまくいってたからね。少しくらい足が出てもやっていけると思ってたんだ。でも、ほんと、あっという間だったよ。登り詰めるのはたいへんだけど、転がり落ちるのに時間はいらないね」
彼は自宅マンションをオフィスにしていた。
間取りは3LDKで80平米。その一室が彼の仕事場だった。新横浜駅周辺の再開発にあわせ、オフィスを移転した企業が主な取引先だ。そこには外資系企業もふくまれる。彼ひとりでは手がまわりきらない仕事は、フリーのプログラマーにまわすこともあった。
そして彼は、夜はバータイムに変わるレストランのカウンターに入った。営業時間は深夜二時まで。オーダーがあればシェーカーも振った。
昼はソフト開発、夜はバーテンという二重生活だ。毎日が忙しかった。客のいない時分を見計らって帳簿をつけ、持ち込んだパソコンをカウンターに置いて見積書や企画書を作成したこともたびたびだったが、そんな毎日がたまらなく楽しかった。
「景気がよかったのはいっときだけだったよね。ほんの二年かそこらってとこだな。気がつくと仕事が減っててさ。それでも何とか持ちこたえてはいたんだ。自己資金なんてほとんど底を突いてたけど、三年は頑張ったかな。意地を張りすぎたんだ。無理しないで、とっととレストランに見切りをつけてりゃよかったんだけど、それができなくてね」
彼は貯えを切り崩した。ソフト開発で得た収入だけでは、レストラン経営の赤字を補填しきれなくなっていたからだ。
そして、資金繰りのために金を借りた。
最初は10万20万という小口のカードローンだった。だが、支払日がくると、今度は返済のための借金を重ねる。そんなことが何度か続く。そのたびに返済額が増え、借り入れる額はかさんでいく。ついには利子を返すだけで精一杯になり、手をつけてはいけない金融業者から金を借りる。借入額は、一気に100万単位に及んだ。
借財は雪だるま式に膨らみ、わずか二年としないうちに、彼が抱えた負債は1000万以上になっていた。
「1100万までは数えてみたけど、それ以上は怖くなって計算するのをやめた。2000万にはなってなかったと思う、それでもかなりの額だけどね。何社からも借りたよ、いま流行りの“多重債務者”ってやつだな」
レストランは手放さざるを得なかった。厨房を任せていたスタッフにも暇を出した。彼もマンションを出て、桜木町の野毛山公園近くにある安アパートに移った。
自己破産も検討したが、それだけは思いなおした。自己破産を申告した人間は、商業登記された会社の役員を勤めることができないのだそうだ。彼は、ソフト開発だけは続けたかった。安アパートでも仕事はできる。せっかく興した会社を閉鎖させたくはなかった。それに、カードも使えなくなるらしい。
「目が眩むような額だったけど、とにかく返していくしかなかったわけさ。てめえでこしらえた借金だからね。最後は開き直りだよ。貸したもん返せって言われても、ないものはないんだからさ」
彼は金融業者に直談判し、自己破産をしない代わりに返済の“一時凍結”を約束させた。グレーゾーンが撤廃される以前だが、業者にも元金だけは回収しておきたいという腹はあるから、彼らもこの申し出を飲んだ。交渉事はなかなか巧みだ。
いったん返済義務を凍結しておいて、彼は返済方法を摸索した。
それが焼きイモ屋だ。晩秋のころだった。焼きイモの季節でもあったのである。
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