「カオスを描いた北斎の謎」

第20回 北極星から取った北斎の号

方位、方角を尊び守る妙見信仰に基づいた命名

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2008年2月1日(金)

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 徳川10代将軍家治政権下の1760(宝暦10)年、江戸の本所割下水(わりげすい、現在の墨田区亀沢1〜4丁目付近)で生まれた北斎は、12代将軍家慶治の時代の1849(嘉永2)年、浅草聖天町(しょうでんまち)遍照院境内の長屋(現在の台東区浅草6丁目)で生涯を閉じた。90歳(数え年、以下同)だった。

 幼少の頃の北斎の伝詳は不明であるが、将来絵師となる環境や基本的な教育はなかったと言ってもよい。13〜14歳で貸本屋の小僧となり、当時売れ筋の絵本、黄表紙の類を見まくったのが教育と言えばそう言えるぐらいものだった。ついで、祖父が仏師屋をしていた縁(えにし)で、版下彫りの親方について文字彫りの作業に精を出す。1775(安永4)年、15歳の頃に洒落本『楽女格子(がくじょごうし)』1冊を彫り上げている。

 しかし、文字彫りよりも絵の方に俄然興味を持ち、役者絵の巨匠として著名だった勝川春章の門を叩いている。79(安永8)年、19歳の時、勝川春朗を名乗り、細版役者絵3枚を刊行、それが北斎の絵師としての出発点だった。

 以来、亡くなるまでの70年間、猛然と作画に取り組み、1つの画風では飽き足らず、次々と作風や分野を変える度に進取の試みに挑戦、己の納得のいく道をひたすら歩いた。そして、その度に画名を変えていた。その数は20種類を超える。画名の変遷から彼が何を探り、何をどう描こうかという真の意図が見えてくるはずだ。

次々と変えた画号と手がけた作品

 主だった画号とその折に手がけた作品について述べてみよう。画号は時代的に重複して使用されている。

(1) 1779(安永8)年〜94(寛政6)年 20〜35歳
勝川春朗を名乗り、細版の役者絵、黄表紙の挿画に着手する。
(2) 1795(寛政7)年〜98(寛政10)年 36〜39歳
俵屋と称した琳派の巨匠が用いた画名を取り、百琳宗理、菱川宗理などを名乗る。狂歌絵本の挿画、摺物、肉筆画を手がける。摺物は武士階級や知識人、富裕商人など仲間内の私的配り物(今で言えばチラシのようなもの)であったから、意匠性と精緻な描法が求められた。
(3) 1798(寛政10)年〜1810(文化7)年 39〜51歳
北斎辰政(ときまさ)を名乗る。初めて北斎という号を使用。この頃、3匹の亀を描き、知人に配布した摺物がある。号は「北斎辰政画に『師造化』の印」とあり、絵柄の上部に稲葉華渓の賛として、「宗理なしの改名に北辰の光いよいよましなん事」云々とある。北辰とは北極星を指す。また師造化の「造化」とは、天地の万物を創造する神を意味する。
(4) 1800(寛政12)年〜04(文化元)年 41〜45歳
時太郎可候(かこう)を名乗る。黄表紙の挿画名に使用。
(5) 1801(享和元)年〜1808(文化5)年 42〜49歳
画狂人北斎を名乗り、肉筆画、摺物に精を出す。
(6) 1805(文化2)年〜18(文政元)年 46〜59歳
葛飾北斎、または葛飾戴斗(たいと)を名乗る。滝沢馬琴とコンビを組み、読本『新編水滸伝』『椿説弓張月』の挿画に手を染める。読本の挿画は劇的かつイマジネーションの豊かな絵柄が要求された。
1812(文化9)年、絵を習う初心者のための絵手本『略画早指南(はやおしえ)』に取り組む。定規とコンパスを使って人体や顔手足を割り出す。
また同時に平仮名落款を記した『賀奈川沖本杢之図』などの洋風画5図を描く。
銅版画の影響を受け、線遠近法や陰影法を試みる。
1814(文化11)年〜19年(文政2)年、すなわち55〜60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く。絵を描く人々や職人のための図案の手引書として森羅万象3000種をデッサンした。
(7) 1810(文化7)年〜19(文政2)年 51〜60歳
北斎改葛飾戴斗を名乗る。1818(文政元)年頃、鳥瞰図である「東海道名所一覧」「木曾名所一覧」「総房海陸勝景奇覧」や、肉筆画を制作する。
(8) 1815(文化12)年〜49(嘉永2)年 56〜90歳
前北斎戴斗。読本の挿画、肉筆画、絵手本を手がける。
(9) 1820(文政3)年〜35(天保6)年 61〜76歳
前北斎為一(いいつ)を名乗る。職人のための図案集である絵手本『今様櫛キン雛形』、風景画の傑作『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』、琉球使節の江戸参府に当て込んだ『琉球八景』を描いた。
洋風画、漢画様式を取り入れ、風景絵師としての決定的な名声を手に入れる。
(10) 1834(天保5)年〜35(天保6)年 75〜76歳
三浦半島・浦賀に潜居し、三浦屋八右衛門を名乗る。
(11) 1834(天保5)年〜49(嘉永2)年 75〜90歳
画狂老人もしくは画狂老人卍を名乗る。絵本『冨嶽百景』、肉筆画『肉筆画帖』「椿と鮭の切り身」「狐の嫁入図」「羅漢図」「富士越瀧図」「雨中の虎図」などを制作。

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著者プロフィール

内田 千鶴子(うちだ・ちづこ) 内田千鶴子

作家・江戸文化研究家。1943年千葉生まれ。早稲田大学第一法学部卒。76年、映画監督の故内田吐夢(とむ)の次男・有作と結婚。79年、吐夢が写楽映画化のために描いた手紙(粗筋)を夫より手渡され、それがきっかけで写楽研究に入る。83年、中央公論社刊「歴史と人物」に「写楽=新史料」を発表。実証的研究を重ね、93年に『写楽・考』を発表し、大きな反響を呼んだ。著書に『写楽失踪事件』、カラーブックスシリーズ『写楽』、『能役者・写楽』。2007年1月に刊行した『写楽を追え』はドラマ風に仕立てた。現在、視点を外に向け、葛飾北斎『冨嶽三十六景』より、北斎創作の経緯および秘密に迫る研究に入った。



このコラムについて

カオスを描いた北斎の謎

90歳の生涯で膨大な作品を残した葛飾北斎。驚くべき体力と精神力の持ち主であった彼は、70歳を過ぎてから代表作『富嶽三十六景』シリーズを制作し、その後、長野県・小布施を訪れて、宇宙の混沌(カオス)を描いたかのような傑作を80代半ばに完成させた。なぜ北斎はカオスを描いたのか。『富嶽三十六景』の制作の頃から追って、その謎の真相に迫る。

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