彼女は食事の作法は十分心得ていた。
小さなものも口から落としたり、皿に指をいれても指先をぬらしたり、胸の上に食物を落とすというはしたないことはしなかった。
水をのむときは上唇をきれいにぬぐい、あとでコップに油かすをつけているようなことはなかった。
(チョーサー作 『カンタベリー物語』より)
本箱の奧から引っぱり出してきた文庫本の一節だ。
ここで書かれている“彼女”とは、物語に登場する修道女のことだ。私はこの場面が好きだった。だから、女性と食事をする際、グラスに残った口紅のあとをナプキンでさりげなく拭き取るような所作を見せると、私はただそれだけでそのひとを好ましく見ていた。
今回は、口紅の物語――。
* * *
口紅には謎が多い。
私にはまったく縁のないものだ。最近は自分で眉をきれいにカットしたり、男性用化粧品を愛用している男性もいるとは聞くが、唇が乾きやすいひとがリップクリームを塗る以外、世の男性のほとんどが知らない世界だ。
しかし、女性には欠かせないものなのである。紅をさしただけで、女性は、雰囲気も表情もがらりと変わってしまう。嫣然と微笑む口元を指して、魅惑の口元とも言う。ミステリーである。
そもそも、口紅が何からできているかを知っているひとのほうが少ないだろう。薬事法の改正で、化粧品は配合成分の表示が義務づけられている。だから、使用された原料はわかる。だが、何十種類と表示される成分の一つひとつはさっぱりだ。

(写真:矢内 耕平、以下同)
「わかりやすく言うと、ワックスと油、色素……、かつては顔料と言われていたものですね。それと、最近の流行のパール材の四つで口紅はつくられているんです」
津原一寛(つはら・かずひろ)は、コーセー研究所・第二製品研究室メイク製品グループに籍を置いている。
摂南大学の薬学部出身。大学の研究室がコーセーとスキンケアの共同研究をしたことが縁でコーセーに入社した。メイク部門、スキンケア部門、基礎研究とそれぞれの研究部署で三カ月ずつの研修を経て、皮膚の研究部門に配属。しかし、せっかく化粧品メーカーに入ったのだから、と“モノづくり”部門への異動を願い出て、口紅の開発に携わっている。
ここで、私のように、メイクについて何の知識もない男性にワンポイントアドバイスを。
化粧は、大きく“ポイントメイク”と“ベースメイク”のふたつに分けられるのだそうだ。ポイントメイクとは、口紅やアイライン、マニキュアといった部分的な化粧を施すことをいい、ベースメイクとはファンデーションなどの基礎化粧をいうらしい。私も初めて知った。
津原の担当は、そのポイントメイクだ。

「ワックスというのは、文字どおり“ロウ”のことです。このロウが固まって、口紅のあの固さになるわけですが、ワックスは天然系と合成系に分けられます。天然系は、ミツロウやキャンデリア草という草から抽出したもので、合成系は炭化水素などが主な材料になります」
面白いのは、口紅で使われるワックスは、本来の用途とはまったく異なる使われ方をしているということだ。
ワックスは、もともとはリンゴのつや出しや、製本時の紙の糊づけ、車のワックスに用いられていた。そのワックスを材料にすることで、固すぎず軟らかすぎず、唇に塗りやすい強度の口紅ができるのだという。
それらを、数種類の“油”で溶いていく。

油は、ワセリンのようなペースト状のものもあれば、さらさらした液状のもの、水飴のようなとろみのついた油もある。これらを混ぜあわせるのだが、レシピはほとんどできているらしい。よほどこれまでにない口紅を開発するのでもないかぎり、配合比率はほぼ決まっているとのことだ。口紅の特徴にあわせ、その比率を変動させているのだという。
「ワックスは口紅を固める役割を果たし、塗ったときの感触を油の分量が決めているんです。たとえば、軽くさらっとした感じとか、逆にべたっとくっつく感じの口紅ですね。あれは調合の比率で変えているんです」
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