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【第20回】 一大ブームとなった鮫島有美子

『日本のうた』が爆発的にヒット、40タイトル近くを制作

  • 諸石 幸生

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2008年2月15日(金)

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 川口義晴さんのアルバムには前回触れた坂本龍一のものもあれば、大江光の音楽のようなものもあり、プロデュースしてきた音楽は多種多様である。企画会議の嫌いな川口さんがどう会社との折り合いをつけながら自己を押し通してきたのか、あるいは折れてきたのか。その辺りの微妙な話が今回のテーマ。そして、社会的な反響を巻き起こした鮫島有美子のアルバムへと話は続いていく。


本当に面白いものは議論でつぶされる場合が多い

―― 課長職に就かれていた期間が2年ほどあるそうですが、その間には企画会議などをやってアルバムの内容を煮詰めたりしたんでしょうか。

音楽プロデューサーの川口義晴さん

音楽プロデューサーの川口義晴さん(撮影:清水健)

川口: まあ企画というのは、大勢で議論してどうなるというものでもないでしょう。ただクラシックのようにある程度知っているもの、つまり作品や演奏家についてある程度分かっている場合、既に有名になっているアーティストの場合は、議論したほうが良い結論が出ることもたまにはあります。ピアニストのマリア・ジョアオ・ピリスの時なんかは議論もしないで書類だけ通してやりましたね。だって皆知らない新人ですから。議論のしようもないし。

 1人のアイディアとみんなの議論と、擦り合わせたほうがいい場合とそうじゃない場合が必ずあるんです。エリアフ・インバルとの仕事が終わった頃に僕は課長になりました。1986年かな。でも僕がいる間は課内で論議はしましたけれど、最初から宣伝とか営業とかの人間を交えた会議は全然やりませんでした。課の人間は一応専門家ですから意見は聞きますし、それをどうするか議論もしました。でも、本当に面白いものって議論しているうちにつぶされちゃうことの方が多い。そういうのが僕は嫌でしたね。制作・企画は議論したからいいものになるとは言えないと思いますね。

―― とがったところがだんだん丸くなって、最後は普通になっても詰らないですしね。

 ただ、大江光の音楽、実はあれは僕が思い付いた企画でも、スタジオに入ってやった仕事でもない。僕はハンコを押しただけ。それを本部長のところに回したら、つぶされた。それを遮二無二説得してやっと実現した。彼の音楽に対してどうのこうのと言うのではなく、これは売れるだろうと思って通そうとしたんです。でも、あんなに売れるとは思わなかったけどね。

 管理職ってのは四六時中そんなことをやっていなければならない。結局、2年で管理職をやめましたが。

業界の暴れん坊と呼ばれて

―― 川口さんの仕事で、もう1つ大きなものが鮫島有美子さんとのレコーディングではないかと思いますが。

 あれはね。83年頃からかな、日本のレコード界全体のムードとして、邦人を誰かやらなきゃいけないという雰囲気が起こってきたんです。でも、僕はもともと否定的でした。今から思えば邦人演奏家の水準は本当に低かったしね。ただ会社の中にオペラ好きを自認する者がいて、4人ぐらい歌手の候補を上げてきた。その中に鮫島の名前があったんです。というより、僕が聴いたことがあったのは鮫島だけだったんです。

 ズデニェク・コシュラーの指揮で二期会の『フィガロの結婚』があり、そこで彼女が歌っていたのを聴いたことがあったんです。声はないかな(声量がない)、でも、きれいな声だ。そんな印象でしたね。僕に提案した男はクラシックのオペラ・アリアなんかをやりたいということだったけれども、とてもそんなタイプじゃない。声量がないわけだし、どちらかというとノド声だし。日本の歌ならいけるかもということでやってみた企画だったんです。それで、鮫島さんに手紙を書いて、まず作ったんです。『日本のうた』というアルバムをね。

1985年、アルバム『日本のうた』発表記念のミニ・コンサート&特別サイン会で。前列中央が鮫島有美子、後列左から2番目が川口さん

1985年、アルバム『日本のうた』発表記念のミニ・コンサート&特別サイン会で。前列中央が鮫島有美子、後列左から2番目が川口さん 写真提供:川口義晴

―― ということは彼女からの企画ではなくて……

 全然違いますし、彼女は日本歌曲なんてそんなに歌ったこともなかったと思います。よく知られている歌曲を1枚、日本の歌だけでね。84年でしたね。ピアノのヘルムート・ドイチュ氏と一緒に山梨で録りました。毎日、馬刺し食いながらね(笑)。

 でも、日本の歌曲ばかりじゃつまんないから、カチューシャかわいや、という「カチューシャの唄」を録音したんです。中山晋平の曲ですね。ピアノ譜は作曲家の林光に頼みましたが、幸いにも光さんはオーケストラと合唱のために日本の歌をその頃いっぱいやっていたんですね。その前の年だったと思いますが、東京混声合唱団で。これが凝りに凝ったとてもいいアレンジで、幸い僕もそれを聴いていたものだから、すぐに光さんに頼んだんです。

―― 鮫島さんとしても異例の曲目だったのでは、という印象ですが。

 アルバムを出した時、クラシックの歌手にこういう曲を歌わせるとは何事だって叩かれましたよ。そんなことばっかりやっていたから、僕は業界の暴れん坊ってなっちゃいましたけどね。

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夢の実現にあたっては強く「念ずる」。そうした心構えを支えにビジネスの世界の荒波を渡ってきました。

後藤 忠治 セントラルスポーツ会長