別れを切り出されたとき、思わず、ちょっと待てと言っていた。
受話器を握る手にも力がこもった。
電話の主は同業者だった。親友でもある。何の前触れもなく、突然にライターを辞めて郷里に帰ると彼は電話口で告げていた。驚くほどに口調が穏やかだったのは、気持ちの整理がついていたからかもしれない。だが、にわかには信じられなかった。私はただ、ちょっと待てよとか、どういうことなんだと、ありきたりの文言を繰り返しただけだった。
「考えなおせ。もったいないじゃないか、ここまで頑張ってきて」
「うん……、でも、もう決めたんだ。荷物もほとんど段ボールに詰めたし」
私は呆気にとられた。部屋を引き払う準備までしていたとは。
彼は、電話では理由を言わなかった。郷里には車で帰るという。その代わり、帰る前に私の部屋に寄りたいと言った。私も、詳しい話はそのとき訊くことにして受話器を置いた。
だが、それはあまりにも不意で、予想もしていなかった電話だった。
* * *

(写真:山本 雷太、以下同)
彼が来宅したのは、それから十日も過ぎた早春の夕刻だった。
家内が料理の準備しているあいだに私は酒屋に行って、ビールに日本酒にウィスキーにと、買える限りのアルコールを購入していた。彼を酔わせて、車の運転ができないようにしてやるつもりだった。そして、一晩かけてでも説得し、ライターを辞めるなどという考えを翻意させる腹積もりでいた。
「さあ、空けてくれ」
「駄目だって、車なんだから」
「誰のために用意したと思ってんだ、俺の盃が受けられないっていうのか」
「こうなるとは思ってたんだけど……、じゃあ、一杯だけ」
グラスが半分になると私が注ぎ足す。次は家内が注ぐ。私たちは申しあわせていた。
最初は拒み続けていた友人にあきらめの色が出て、いつものピッチで飲みはじめる。これであと数時間はハンドルを握ることもできない。私は少し安心して、ようやく思い出話に花を咲かせた。彼の失敗談を持ち出しては笑い、そういうお前こそ、と彼も反撃に出た。
若いころはいつもこんな感じだった。
駆け出しライターどおし、同年代で気のあう仲間どおし、しょっちゅう集まっては夢を語りあった。これからのノンフィクションはどうあるべきかと真剣な議論をし、当時の売れっ子ライターが書いた記事を読んでは、俺もいつかはこんなすげえルポを書いてやると息巻き、早く一人前になり、認められる日を熱望していた。誰にでも熱い季節はあるのだ。
そのなかで、彼だけは仲間から頭ひとつ抜け出ていた。
彼は、二十代のうちから完成原稿を書いていたからである。
大雑把な分け方をすると、雑誌の世界は“記者”と“ライター”とに分けられる。わかりやすく言えば、現場をまわってネタを拾ってきたりコメントを取ってくるのが記者の仕事だ。記者は、取材には行くが完成原稿は書かない。それが新聞記者との違いだ。雑誌記者が書くのは、コメントをまとめた“データ原稿”までだ。そのために“データマン”と呼んでいる編集部もある。
最初から完成原稿を書けるライターなど出版界にはいない。それほど甘い世界ではないのだ。基本的にはデータマンでスタートし、経験を積んでようやくデスクか副編クラスの編集者から、そろそろ一本書いてみるか、と言われて初めて書く機会が与えられる。それまでは、せいぜい半ページほどのコラムを書ければいいほうだ。そこに至るまでに何年もかかる。
ライターとは、データマンから昇格した人間を言うのだ。だから、ライターとデータマンではランクが違う。もちろん、稿料も違う。ものすごく違う。
二十代のころ、私たちはいずれもデータマンだった。いわゆる下積みや修業にあたる時期だが、誰もが早く記名原稿を書ける身分になる日を願い、チャンスを窺っていた。書きたいからこの仕事を選んだのだ。だが、書くには自らをランクアップするしかない。だから、すでに記名原稿を書いていた彼は、私たちの羨望の的だった。
その彼が、一度だけかなり酔って、私に言い放ったことがある。
「俺はさ、お前にだけは負けないよ。お前よりいいものを書く、お前が自信をなくすくらいのものを書いてやる。でもな、俺が賞を取ったら、お前だけは授賞式に招待する。必ず祝いに来い。その代わり、お前がさきに取っても俺を呼べよ。必ず祝いに行ってやる」
私たちは、仲間であると同時に、常にライバル関係にあった。
皆そうだった。若いころは、仲間が書いた記事には隈無く目を通し、スクープでも飛ばそうものなら差をつけられたように落ち込み、社会現象になるようなものを書けば嘘偽りない本音で賞賛した。そして、これ以上離されまいと自分の腕を磨くことを考えた。だから仲間でいられた。
「そんなこと言ったかなぁ」
お前にだけは負けないと言ったことを、彼はすっかり忘れていた。
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