ノンフィクションライターなどという、いかにももっともらしい肩書きをつけている。
確定申告のときだけ、その職業欄には“著述業”などと、さらにもっともらしく記しはするが、仕事の大半は書くことではなく、人と会うことに費やしている。原稿に向かう時間そのものは、せいぜい仕事全体の10分の1といったところか。
現場を歩いて、証言を集めないことには記事を書けないからだ。
現場を歩くことなく、証言も集めずに書く記事をデッチあげ、もしくはねつ造という。最近ではそれらを総じて“アサヒる”というらしい。
私の仕事は、アサヒることなく、とにかく人に会ってネタを拾わないことにははじまらないのだ。
このとき、まだ誰も知らないようなネタを取ってくる人間、あるいは、取っかかりは断片的な情報に過ぎなくても、それが社会の死角や盲点を衝いていたり、これは世論を喚起する記事になるぞ、と読者の反響を“読める”人間が、マスコミ業界では優秀なジャーナリストと呼ばれる。
いるんですよ、この業界にはものすごい嗅覚の持ち主が。
その代わり、嗅覚だけはものすごいけど、文章を書かせたらとんでもなく下手くそで、せっかくのネタをつまらないものにしてしまう、実にもったいない人も多いんですけどね。とはいえ、マスコミはネタを取ってなんぼの世界だから、それだけでジャーナリスト面している人が多いのも実際のところですが。
では、満足にネタも拾ってこられない人間はどうするかというと、ジャーナリストを名乗るのはおこがましいので、じゃあノンフィクションライターとでも言っとくか、となり、ならば満足にネタも拾ってこられないくせにノンフィクションライターなどといかにももっともらしい肩書きをつけている落ちこぼれは何をしなければならないかというと、日々精進しなければならないという実にわかりやすい図式が見えてくる。鏡の中の私もそう言っている。
精進しなければならない。
いつもそう思う。
だが、気がつくとたいがい仲間に差をつけられている。切磋琢磨しなければならないのに、切歯扼腕ばかりしているのである。仲間にこれ以上のリードを許してはいけない。そこで考える。私には何が足りないのだろうかと。
努力なのだろうか。それとも逆境をはねとばす不屈の闘志か。あるいは、窮地にもめげない忍耐力か、転んでもただでは起きない強さといったものか。もしや、宴会芸のひとつも持ってないと駄目なのか、いやいや、長いものに巻かれる処世術さえ身につけておきさえすれば――、と、だんだん安易なほうへ楽なほうへ自分を持ってゆく。デキるやつってのは、きっと他人の見えないところで頑張っているのだろうな、などと思いながら。
デキるやつというのは、いるのだよ。
取材先にも、いる。
仕事が立て込んでいるときはほぼ毎日、少なくても週にふたりか三人には会って取材をしている。たぶんしているはずだ。毎週ふたりずつで計算しても、私は年に100人を超える人たちに話を聞いていることになる。毎週三人ずつなら150人だ。
私のキャリアは20年ちょい。すると、20年ぶんの延べ人数で2000人から3000人に会ったことになる。あくまで計算上の話だが。
ところが、不思議なもので、一回こっきりしかお会いしたことがなくても強く印象に残り、十年経ったいまでも覚えている人もいれば、古い名刺をひっくり返したとき、これは誰で何の話を訊いたのだろうと記憶にすら残っていない人もいる。
その逆もまたあって、何年ぶりかで再会したとき、私は先方のことを覚えているのに、先方は私のことをまったく覚えてなくて落ち込むこともよくある。よくあることではいけないのだが。それでいて、私が先方のことを忘れていて、先方が私のことを覚えているということは滅多にない。いかんね、それじゃ。
影が薄いのは私の不徳の致すところだが、挨拶を交わしただけで、このひとはデキるぞ、と直感的に感じる人がいることもまた事実だ。私よりうんと年下なのに、こいつはデキるな、と思わせるような小憎らしいやつもいる。
そして、その直感はあながち誤ることがない。
「そうだよね、こんだけデキりゃ出世すんのも当たり前だよね」
と、内心でため息が出てしまうような人は、ただ仕事ができるばかりでなく、人間的にもデキているのだ。剛球一本槍かと思えば多彩な変化球を投げ分け、制球力もあって、おまけにとんでもない“隠し球”まで秘めていたりする。野球をご存知ない方にはわかりにくい譬えかもしれませんが。
仕事はできるが人望がないという人は不幸だ。右に出る者がいない代わりに、右腕になる者もいない。だから、城は築けるだろうが、おそらく石垣は脆い。人望だけはあるけど、仕事ができない人もまた不幸だ。そのくせ野心だけは人一倍という人はもっと不幸だ。石垣をつくっただけで時間切れになりかねない。
誰にでも、周囲に一目置かれ、デキるやつと思われたいという願望はある。私だって、あいつが書いた記事は面白いと思われたい。編集者にも、あいつが書くのなら問題ないだろうと思われたい。これを無いものねだりと人は言う。
仕事がデキる、部下にも人望がある、仲間にも信頼される、ユーモアのセンスがあって異性にもモテる、金離れもいい、常に自分を磨いている、同性から見ても魅力的だ、セクシー、ダンディ、クール、エトセトラエトセトラ――、数え上げればきりがない。でも、悔しいけれどいるんだよ。どこを取っても非の打ちどころのないデキるやつが。
と、ここまでは前置きです。前置きが長すぎる、とツッコまないように。
本コラムでは、どういうやつをデキると言うのか、“デキルヤツノ条件”を世相と照らしあわせながら探ってみたいと思います。ご興味のある方は、おつきあいください。
本編のはじまりです。
これから本編かよ、とツッコまないように。
* * *
ずっと気になっている流行語のひとつに“KY”という言葉がある。
その場の空気を読めないやつ、という意味で使われるらしい。もちろん、褒め言葉ではない。こうした日本語をそのままイニシャルに置き換えた言葉を“KY式日本語”と言うのだそうだ。そういうタイトルの本も出ている。愚鈍な閣僚を指して“KY内閣”なんて言ったりもするから、すっかり浸透した表現のようだ。
誰が使い始めたのかは知らないが、おそらくは若い子たちだろう。流行を生み出すのは、いつの時代も若者たちの感受性だ。
私が30歳になったころ、いちばん下の従姉妹がJK(女子高生の意。これもKY式)で、校則が厳しい私立の女子校だったので顔こそ白かったが、バリバリ(これはほとんど死語)にルーズソックスを穿き、チョベリバだのチョ〜ムカつくといった単語を連発していた。
あまりにも馴染みのない言葉ばかりなので、そのたびにばかにされながらも意味を訊くしかなかったのだが、その中のひとつに“MG5”という言いまわしがあった。
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