九州国立博物館準備室に移ってから1年間は東京国立博物館での間借り生活であった。この間に『長谷川等伯』(ミネルヴァ書房)を出版している。長谷川等伯には、京都の寺院に障壁画の名品が多く残されていたので、学生時代から親しんできた。滑らかで清潔感のある筆致には誰もが好感を持つはずだ。京都国立博物館に入ってすぐに作品を購入するという経験をしたが、その記念すべき最初の作品は若き日の等伯、まだ信春と名乗っていた時期の作品、3点であった。

長谷川等伯 『松林図屏風』 六曲一双 右隻 桃山時代 東京国立博物館所蔵 Image:TNM Image Archives
近松門左衛門のいう「虚実の皮膜」にもぐり込むことの楽しさ
等伯には「松林図」屏風という傑作がある。だが、日本の水墨画を代表する名品という高い評価を実感できるまでには、かなりの年月がかかった。どんな名画でも感動を得るまでは単なる色付きか、白と黒の壁でしかない。その瞬間がやってきたのは東京国立博物館での特別展だったことを覚えている。水墨画の展覧会ではなかったことは確かだ。だから、1987(昭和62)年の「日本の水墨画」ではない。89(平成元)年の「室町時代の屏風絵」でもない。正確な記憶ではないが、90(平成2)年の「日本国宝展」だったような気がする。
突然、「松林図」の靄に自分が包まれているような感じがした。朝靄の中に姿を現し始めた松林の間を流れる、清浄な空気に自分が浄化されてゆくような気がした。この、包み込まれるような感じこそが、日本の画家たちがわたしたちに与えてくれる至福の快感である。現実と非現実感とが融け合った、近松門左衛門のいう「虚実の皮膜」にもぐり込むことの楽しさ、それは決して最初から手に入るものではない。だが、何度も顔を合わせているうちにきっとやってくる。その瞬間まで待たなくてはとても作品についてものを言うことはできない。
長谷川等伯には智積院の「楓図」と、この「松林図」という対照的な作品が国宝に指定されている。その意味を解かなくては等伯に迫ることはできない。等伯は染物屋の養子となって能登の七尾に育ち、中年までは「絵屋」、すなわち絵を売る商売を家業として営み、京都の繁華街に店を構えるまでになった。しかし、次第に、当時における芸術家、すなわち水墨画家を志すようになった。しかし、当時の習いで、彼の水墨画のほとんどはなんらかの手本に基づくものであり、どこにも手本が見当たらない等伯独自の水墨画は「松林図」、これ一つと言ってよい。雪舟の「天橋立図」と同じ成り立ちをこの図からうかがうことができる。「松林図」が傑出している理由、そして、等伯が二度とこれに匹敵する作品を生み出せなかった理由もそこにある。
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