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第23回 恨みの表情を宿した鳳凰図

反骨心と自己顕示欲が奇抜な構図、鮮やかな彩色を生む

  • 内田 千鶴子

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2008年3月21日(金)

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 去る3月8日、北斎が晩年に描いた肉筆画を見るために信州上高井郡小布施町を訪れた。

 小布施町はまだ肌寒いものの、空気は清清しく、穏やかな町で、北斎が4回も訪れていた理由が分かったような気がした。

 小布施村出身の豪商で、飯山藩から家老職の扱いを受け、京都九条家の御用達だった高井鴻山(こうざん、1806-1883)の誘いを受け、北斎は1842(天保13年)秋から1848(嘉永元)年頃まで4回も小布施を訪れていた。この時、北斎は86歳から90歳近い高齢に達している。では、なぜ北斎は高齢を押してまで小布施を4回も訪れたのだろうか。

 それは、1841(天保12)年から1845(弘化2)年にかけ、老中水野忠邦が行った天保の改革による風俗取締令や奢侈禁令の一環として、錦絵や合巻本の刊行がはなはだしく規制されたことにあると思われる。

 役者絵、遊女絵、女芸者絵、種々の世態風俗を描いた絵の刊行は一切禁止され、浮世絵師、彫師、摺師、版元などは仕事らしい仕事がなくなってしまった。わずかに神社仏閣の絵馬額や教訓本、歴史画のようなものを細々と描いては糊口をしのぐしかなかった。北斎や、名所絵で名を売った歌川広重、役者絵や美人画、合巻本の挿画を一手に引き受けていた歌川派の浮世絵師の面々も、ひたすら改革が沈静化するのを待つしか手がなかったのである。

 この窮状に手を差し伸べたのが高井鴻山だった。彼は15歳で京都に上り、儒学を摩島松南、絵を虎図で著名な岸駒(がんく)、書を貫名海屋に師事し、自らも絵を描いた。京都や江戸の文化人とも親しく、高井家の江戸代理人である、江戸日本橋本銀町の十八屋を通じ、北斎と知り合いになったらしい。

 とにかく自分の納得できる絵を描きたいという一念で、北斎は高齢を押して小布施へ旅立ったのである。

鉱物顔料26色を使用して岩松院の鳳凰図を描く

 江戸時代の人の足は強い。1日20キロ(5里)から30キロ(7.5里)を馬や駕籠、徒歩で進むのはざらであった。北斎は弟子や娘のお栄を従え、1842(天保13)年秋、江戸を発った。中山道の板橋、大宮、熊谷、そして日光東照宮へ通じる日光例幣使街道と分岐する倉賀野を経て、安中、軽井沢、沓掛から大笹街道沓掛通、大笹街道の仁礼、須賀、そして北国裏街道を経て、小布施へ入ったと思われる。

 一方、舟運という手も考えられる。江戸から小名木川を経て、江戸川に合流、木下(きおろし)方面で利根川に入って上り、烏川に面する倉賀野で舟から降り、陸路を大笹街道で小布施まで行くというコースもあるが、どの方法で小布施へ向かったのか文献もない。

 小布施へ入った北斎は、1844(天保15)年に東町祭屋台の天井に『鳳凰』と『龍』を、1845(弘化元)年に上町祭屋台の天井に『怒涛図 男波』『怒涛図 女波』(いずれも北斎館蔵)を描いている。

 2基の祭屋台はことのほか大きく、上町祭屋台は高さ4.84メートルにも及ぶ。屋台の欄間に中国の唐子(からこ)の彫刻がある。彩色は2基とも朱、緑、青、金箔、金砂子を使うなど極彩色で、豪華、華麗であった。祭屋台2基の豪壮さだけでも、当時の小布施が経済的に繁栄していたところだということが推し量られた。

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