「カオスを描いた北斎の謎」

第24回 天界へと飛翔した北斎

祭屋台の天井に地上から離脱した宇宙空間を描く

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2008年3月31日(月)

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 北斎は1843(天保14)年に信州小布施で東町祭屋台の天井に龍図と鳳凰図を、2年後に上町(かんまち)祭屋台の天井に『怒涛図 男波』『同 女波』(いずれも北斎館蔵)を小布施の人々やその地の豪商・高井鴻山の協力で描いた。

 当時の小布施周辺の町々では、菜種油などの地場産業に加え、北国街道や中山道との往来を通じて物資や人々が流入して経済が潤い、東町と上町の2基の祭屋台のほか、5基の祭屋台を競って仕立てていた。

 東町祭屋台は高さ4.74メートル、幅2.01メートル、奥行き3.33メートル、上町祭屋台の方は高さ4.84メートル、幅2.40メートル、奥行き3.55メートルもあり、骨組みの大きさ、堅牢さに圧倒された。

 東町の方は1806(文化3)年に造られた町で一番古い屋台であったが、現存するのは北斎や彫物大工・亀原和田四郎などの協力で1843(天保14)年に再造されたものである。上町の方は高井鴻山が資財を投げ打っての建造で、北斎色が強く表れている。

 東町、上町それぞれの祭屋台の天井画は桐を素材としている。東町の天井には北斎筆による縦1.26メートル、横1.23メートルの龍図と、縦1.26メートル、横1.2メートルの鳳凰図が描かれている。上町の方は天井前方に『怒涛図 男波』、後方に『同 女波』がそれぞれ縦1.23メートル、横1.227メートルで描かれている。

北斎筆 上町祭屋台の天井絵『怒涛図 男波』 写真提供:北斎館(長野県小布施町)

北斎筆 上町祭屋台の天井絵『怒涛図 男波』 写真提供:北斎館(長野県小布施町)

 東町祭屋台の欄間には唐子(男児)が平和の象徴として彫られ、上町祭屋台の欄間には亀原和田四郎の手になる桜、牡丹、朝顔、菊に各種の珍鳥が彫られ、華麗な色彩にあいまって立体感を盛り上げている。

 天井画の下、飾り舞台には、中国宋時代「水滸伝」に登場する宗江の軍師、奇術にたけた公孫勝が長い剣を手に呪文を唱えて海から龍を招き入れ、天界で舞わせている彫刻がある。彫ったのは亀原和田四郎で、素材は欅(けやき)だ。

 東町祭屋台の天井画に描かれている龍は想像上の動物で、雲を起こし、雨を呼ぶと言われる。鳳凰も想像上の霊鳥で、鳳は雄、凰は雌。梧桐だけに住み、竹の実を食べ、甘い水しか飲まず、体に五色の羽を持つという。

祭屋台の天井に龍や鳳凰が描かれた理由

 中国の戦国時代から漢代にかけ、祥瑞思想が高まり、鳳凰は霊鳥に祭り上げられた。頭上に冠羽根があり、尾羽根は長く、孔雀を思わせる。祥瑞は仁君の世に現れるという由縁で、鳳凰は尊ばれてきたのである。

 北斎が東町祭屋台に想像上の龍や鳳凰を描いた理由は、唐様建築に残る膨大な絵画や彫刻の中でも龍や鳳凰がダントツに多いという点に起因していると思われる。

 その背景には、紀元前2世紀末の中国漢の人、劉安が編んだ「淮南子(えなんじ)」には、「万物、羽、毛、鱗、介、皆祖於竜。羽嘉生飛竜。飛竜生鳳凰。而後鸞鳥庶鳥、凡羽者以次生云々」とあるように、向拝より社殿の中に進むにつれて、竜‐飛竜‐鳳凰‐鸞‐諸鳥の系譜が成り立つ。

 ちなみに龍に関しては、東照宮陽明門南側にある天井画に狩野探幽筆の墨画『雲龍図(昇龍)』があり、北側にも『雲龍図(降龍)』があって、これらが直接のヒントを北斎に与えたのではないか。

 龍は雲や波との組み合わせが多い。探幽の龍は墨で描かれている。額縁には朱、群青、緑青の3色で雲文様を配している。南側の龍は頭を下に向け、胴と尻尾をくねらせ、末尾をひと巻き回して上部右方へ流す。

 北側の龍は頭を上部に位置させ、胴を頭上に巻き上げて円を描き、末尾に至る。顎ひげは刃物のように鋭く、口は半開き、眼は上墨で書き込み、白眼は金泥で隈取られている。

 北斎が描く東町祭屋台天井画の龍は朱の円形枠に頭を上部左方へ向け、そのまま胴を左旋させ、さらに東にひと巻き回して末尾は右方へ流している。円形枠には額縁様の波と波頭を描き出す。

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著者プロフィール

内田 千鶴子(うちだ・ちづこ) 内田千鶴子

作家・江戸文化研究家。1943年千葉生まれ。早稲田大学第一法学部卒。76年、映画監督の故内田吐夢(とむ)の次男・有作と結婚。79年、吐夢が写楽映画化のために描いた手紙(粗筋)を夫より手渡され、それがきっかけで写楽研究に入る。83年、中央公論社刊「歴史と人物」に「写楽=新史料」を発表。実証的研究を重ね、93年に『写楽・考』を発表し、大きな反響を呼んだ。著書に『写楽失踪事件』、カラーブックスシリーズ『写楽』、『能役者・写楽』。2007年1月に刊行した『写楽を追え』はドラマ風に仕立てた。現在、視点を外に向け、葛飾北斎『冨嶽三十六景』より、北斎創作の経緯および秘密に迫る研究に入った。



このコラムについて

カオスを描いた北斎の謎

90歳の生涯で膨大な作品を残した葛飾北斎。驚くべき体力と精神力の持ち主であった彼は、70歳を過ぎてから代表作『富嶽三十六景』シリーズを制作し、その後、長野県・小布施を訪れて、宇宙の混沌(カオス)を描いたかのような傑作を80代半ばに完成させた。なぜ北斎はカオスを描いたのか。『富嶽三十六景』の制作の頃から追って、その謎の真相に迫る。

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