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ニヒリズムの対極で著者が本当に選んだ『自死という生き方』
~哲学的事業としての死から何を学ぶか?

2008年5月7日(水)

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自死という生き方――覚悟して逝った哲学者

自死という生き方――覚悟して逝った哲学者』須原一秀著、双葉社、1800円(税抜き)

 死は、他ならぬ私の死ぬときまで訪れず、経験もできない。それでも死の恐怖の内実を探ると、死に至るまでの苦痛やこの世への執着などがあると想像される。

 だが、いくら想像し、恐怖の根拠を列挙しても、死そのものはわからない。人は得体の知れないものを恐れる。わからないから不安になる。だから先取りしたくなり、認識の範疇に落とし込んで納得しようとあれこれ考える。

 だが、死を考えるとはどういうことか? そもそも考えてわかるようなものなのか。考えてわかるようなものなら、わかった範囲に人は死を押し込め、コントロールし、穏当なものにするだろう。

 著者の須原一秀は2006年4月、健全な肉体と平常心を保ったまま、ひとつの哲学的事業として自死した。著者は人生を肯定し、主体的に生きるための自死を提唱する。哲学的事業というのも、「後進に追試・研究の道を開く仕事」と位置づけているからだ。つまり、変人の厭世や絶望からの自殺ではなく、「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?――それはどのようにして可能か?」を研究するための心身を賭けた行いであった。

「主体的判断領域に属することに関して、声高に否定することも肯定することも慎まなければならない。したがって、自殺であれ、自決であれ、自然死ではないという理由だけで否定するのは、それはお行儀の悪いことだと言いたいのである」という主張に出会うと、取りつく島のない感慨に襲われる。

 だがしかし、まずは著者の論旨を追う中で、なにゆえ自死を肯定するのか明らかにしたい。

 改めて冒頭の問いに戻る。人が死を厭うのはなぜだろう。著者はその問いに対し、「人生への未練」「死に至る苦痛」「死そのものと死後への不安」といった要素があるとする。

 翻って言えば、これらの原因が解決されれば、死を嫌悪する理由はなくなる。そこで死を忌避する要素を解明する例として、ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の自死を取り上げるのだが、「それぞれ尋常ではない才能に恵まれた特別な人」という括りで、果たしてこの三人を並列して語ることができるかは、この際不問に付そう。

 重要なことは、著者によれば、三人は幸福の絶頂期にいて、何度も「人生の極み」を味わい、もうこれ以上のものはないだろうと、人生と自分について高を括ることのできる境地にあったと推測されることだ。

充足感を体で実感したから、死を選ぶ

 だから、人生を堪能した三者の自死は、厭世でも虚無的な心境からでもなく、「『老醜の忌避』『病気と老衰と自然死』の拒否以外には考えられないということである。非常に話は単純である」に落着する。

 なぜなら「老醜と自然死に巻き込まれると、〈自分らしさ〉と〈自尊心〉と〈主体性〉が維持できなくなるので、〈自分らしさ〉と〈自尊心〉と〈主体性〉を守るため」には、自死するほかないと結論づけられるからだ。

 なおかつ、その決断は「彼らの頭ではなく、彼らの体による価値判断が〈死ぬこと〉を重要視した」。つまり体感が死の恐怖を軽く扱ったというわけだ。

 この体感あるいは「体で納得していること」がきわめて重要だと、筆者は繰り返しいう。人生の充足感、極みを「体で納得」してこそ能動的な死の受容はありえ、観念的な理解では土壇場で醜態をさらすことになる。

 この死を受容する感覚とは、武士道における「いつでもあっさりと腹を切ることのできる状態になっている心の有り様」のことだという。なぜそうした境地が必要かと言えば、死を自然に任せず、死すべきときに死ぬためだ。

 世間では、穏やかな心持ちで死んでいく自然死が理想とされる。しかし、著者はいう。「『自然死』のほとんどが悲惨であり、恐ろしいものであるにもかかわらず、世間にはなぜか、『穏やかな自然な死』とか、『眠るような老衰』という神話のようなものがある」と。

 病院で生まれ、死ぬことを「自然死」とするのであれば、筆者の指摘通りだろう。延命の名の下、主体性も尊厳も奪われれば、自然死が「『事故死』」や『災害死』と変わらない」のもうなずける。

「人間は自然界で唯一『自らの死』を思慮する動物である。しかも、『病気』や『災害』を自然からの暴力として、それらを何とか制御できる範囲内におさめよう」と試み、「ほとんどの『自然』を公園か動物園レベルにまで調整してしまったのである。しかし、なぜ最大の自然の暴威である『死』だけは制御することに躊躇するのだろうか」

 だから、尊厳を保つ人工死=自死は望ましい。そのために武士道は参照できる心強い伝統だという。

 江戸期の武士は、職業軍人でも官僚でもなく、支配階級でありながら、その社会的役割は不分明だ。武士の自尊心と主体性を救済するため編まれた「葉隠」は、武士の本分を「死ぬことと見つけたり」と喝破し、死狂いを善しとした。

 それにならい著者は、自らの考えを武士道ならぬ「葉隠的老人道」と名づけ、老化により自尊心と主体性を奪われそうになったら、「何時でも自死を決行する覚悟を身に付けた上で、そして出来れば『死にたがり』になった上で、日々生きることであり、このような態勢を整えたときにはじめて人生を肯定できるのである」とし、その宣言通り、人生の極みにある65歳の春、自死した。

 さて、著者の死の直前まで綴られ、記した通りに自死したとなれば、死に対する考察は、著者の身体観、死生観を忠実に示すものとなるだろう。

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