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個人の目線でしかこの国は分からない~『愚か者、中国をゆく』
星野博美著(評:朝山実)【奨】

光文社新書、880円(税別)

2008年5月29日(木)

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評者の読了時間5時間00分

愚か者、中国をゆく

愚か者、中国をゆく』星野博美著、光文社新書、880円(税別)

 ある俳優さんのデビュー30周年を記念した映画のレイトショーに出かけていったときのことだ。開演の1時間前に劇場に着いたものの、立ち見しかないけれど良いですかと訊かれた。

 チケットが指定席システムになってからというもの、映画を立ち見するというのは久しくなかったことだ。プログラムはその日かぎりのもの。了解したものの、トシをとってくると、2時間近く通路にじかに腰を下ろしているというのは……。

 それはさておき、本書のポイントは席をめぐる話だ。

〈人を待たせないというのは資本主義の原点である。あまり無為に消費者を待たせると、消費者は無為に過ごす時間と、そこで手に入れられる価値を天秤にかける。それでも価値があると判断してドーナツ屋やラーメン屋に並び続ける人がいまの日本にあまりに多いことに私はいちいち驚いているが、そこまでの価値はないと消費者が思えば、入手を諦めるか、他の店や他の手段を考えるという選択肢がそこに生まれる〉

 大抵の場合、著者はこれまで並ぶことを避けてきた。本書は、それなのに並ぶことを余儀なくされ、並ぶということの背景にあるものについて考えを深めていった記録だともいえる。

 著者が、中国を旅したのは、天安門事件が起こる2年前、1980年代後半のことだ。

 当時、著者は香港の大学に交換留学していた大学生で、日本はバブル絶頂期、円高を追い風に海外旅行はブームだった。いっぽう、中国はというと、じゅうぶんには外に開かれてはいない。そういう時代のことだ。

〈北京オリンピック開催を間近に控えた昨今、中国に関する報道は日に日に増えている。しかしニュースや報道によって切り取られた中国の断片を拾い集めても、これが一体どんな国なのか、どうも全体像が見えてこない〉

 20年も昔の旅の出来事を、今頃なぜ本にするのか。それも、たまたま列車に乗り合わせた人たちとの一期一会、小さな出来事の数々を大人になった目で振り返るということにどんな意味があるのか。

 読者が抱きがちな疑問に、著者の回答は明解だ。中国を巨大な国家の単位で鳥瞰するのではなく、虫の眼で、二度と遇うことのないだろう人民の一人ひとりとの関わりから見通す。「私」の体験しか信じない。それは、激震のたびに、考えを一変させることのない基盤の提示でもある。

 そこで見たものが何だったのかを判断するために、その場での怒りや感動に冷静になるためにも20年という時間を必要としたともいえる。

 結果的に、時間を置くことで、誰に頼まれたわけでもないのに異国の地を貧乏旅行する「私」を「愚か者」として、ともすれば高みから見下ろしがちな「私」の歪みを暴きだしてみせている。頬被りしてしまいたい自らの恥部さえも。

 二十歳の頃には、感情的になって理解できなかったことも、大人になってみれば呑み込めてくることが多いものだ。そういう意味では、沢木耕太郎が、もう若いとはいえない年齢になって青春時代の貧乏旅行の日記を書き継いだ『深夜特急』に著者の立ち居地は近い。

「切符はない」「明日の列に並び直せ」そして「休憩」…

 香港から広州を経て、シルクロードを鉄道に乗って旅する。『深夜特急』がそうだったように著者も、旅費を切り詰めようとする。まるで貧乏を体験することにこそ価値があるかのように。そこで問題となるのが、列車の切符の入手である。

 シルクロードの旅の出発点である広州でのこと。アメリカ人の留学生マイケルと旅を始めたばかりの彼女は、混雑する切符売り場の窓口に1時間並び、ようやく自分の番となる。行き先を告げると、「ない」と冷たく言い渡される。資本主義圏に門戸を開きはしたものの、まるで商売っ気がない。

 あわてて「明日」の切符はあるのかと尋ねると、「明日のことは知らない」。当日の切符しか扱ってないから、明日の切符なら明日の窓口に並びなおせという。気をとりなおし、明日の列に1時間待ったものの、ここでも「ない」。

 いつの分ならあるのかを問うと、明日以降の切符を扱う予約の窓口へ行けと、木で鼻をくくったようなやりとり。役人天国をあらわす対応に、スタートですでに消耗した著者は、ガラス板越しに「没有(ない)」としか口にしない服務員たちのことを「鉄の女」と呼び表わしている。

〈あと十数人。あともう少し手を伸ばせば窓口に手が届くというところで、鉄の女は非情にも「休息」という看板を出し、窓口を閉めてしまった。人民から悲鳴があがる〉

 先を争い隣の窓口の最後尾へ走る人民。時間差で「鉄の女」たちは昼休みをとるため、いたるところで悲鳴があがり、そのたび人民は奔走する。その中に、著者もいた。

 旅行初日からして、これでは先行きが思いやられる。その様子がまるで昨日の出来事のように綴られているものだから「どうするんだ君たちは」とハラハラしてしまう。『深夜特急』を真似たバラエティ番組のワンシーンのようだ。

 著者が書いているように、窓口上部のあり余るスペースにでも「ない」と掲示しておいてくれたら、並ばずにすんだはずだ。「休息」の看板ひとつで、あとは知らないというのも不条理というか不合理極まりない。

 たかだか列車の切符である。しかし、この切符一枚を手に入れることができないばかりか、どうすれば買えるのかを問うても「わからない」。ガラス板一枚を挟んだ光景は、SF小説の中に紛れ込んだかのよう。永遠にここから出られないのではないか。場所が異国なだけに、そんな不安に襲われる。

 ようやく列車に乗り込むことができてからも、もうトラウマのように、目的の駅に着いたとたん、著者の頭の中は、次の目的地までの切符を入手することでいっぱいとなる。旅の間、切符のことは脳裏を離れなかったであろう。とにかく駅に降りれば真っ先に切符売り場へ向かう。

 切符をめぐる体験は、ささいなことだけれども、著者の価値観とともに、中国という国をあらわしている。

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