東京駅八重洲にあるブリヂストン美術館で「岡鹿之助展」が7月6日(日)まで開催されています(6月11日は臨時休館)。同館では1984年に第1回目の岡鹿之助展を開催していますが、2回目となる本展は没後30年を機にその画業を改めて見つめ、評価する意味合いを込めて企画されました。
制作年にこだわらず、鹿之助が追い求めたテーマごとに展示
同館開催の第1回の回顧展は、岡鹿之助の作品をオーソドックスに年代ごと、すなわち制作年に添って展示していました。ところが、鹿之助の作品は20歳代の終わりに、すでに成熟し完成域に近い画風が形成されていたこと、そして、いくつかのテーマをその生涯をかけて、繰り返し作品としてきたことがキュレーター(学芸員)の研究から明らかになりました。
静謐の具象画家として評価の高い鹿之助の画業を辿るには、彼がこだわりを持った作品のテーマごとに展示、解説を試みるべきではないか。これが本展のコンセプトといえましょう。
会場では鹿之助が生涯こだわり続けた次の9つのテーマに沿って作品が展示されています。
第1章 「海」
第2章 「堀割」
第3章 「献花」
第4章 「雪」
第5章 「燈台」
第6章 「発電所」
第7章 「群落と廃墟」
第8章 「城館と礼拝堂」
第9章 「融合」
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独学の人・鹿之助に影響を与えたパリ画壇のフジタ、スーラ、ボナール
さて、岡鹿之助(1898-1978年)はどのような人生を歩んだのでしょうか。彼は著名な劇作家・小説家として知られる岡鬼太郎の息子として明治31年、東京・麻布に生まれました。岡家は元来佐賀藩の士族で、鹿之助の祖父は藩命により砲術研究のため渡仏したこともあり、油絵を好み自分でも描くなど、ハイカラでインテリの家系だったようです。
鹿之助は大正8(1919)年、東京美術学校西洋画科に入学します。しかしあまり登校せず、独習に身を置き、同13(1924)年同校を卒業しました。
どうして学校で画業を学ばず、独学に重きを置いたのかは明らかではありませんが、20歳代終わりには、その画風を確立したと評価される鹿之助にあって、東京美術学校の授業が物足りなく感じられたであろうことは想像に難くありません。
卒業と同時に渡仏した鹿之助は、パリで藤田嗣治の世話を受け、サロン・ドートンヌやサロン・デサンデパンダンなどに出品をしています。当時、新印象主義の旗手として名を揚げつつあったスーラの描法や構成法を学び、同時にボナール、ザッキン、マルケらとも交友を深めました。
昭和14(1939)年、鹿之助は第2次世界大戦の混乱を避けるために帰国。その後は春陽会会員となり同会を中心に活躍を続け、昭和47(1972)年に文化勲章を受章、昭和53(1978)年、心不全のため79歳で逝去しました。
点描の雄スーラと対比される鹿之助独特の点描法
岡鹿之助の画風は形体・色彩を単純、理想化することで“静謐かつ温雅な詩情”を醸し出すことを特徴としています。カンバスに白い下地をつくり、点描法で純度の高い色を配置、擦筆を用いて淡い色調を出していきます。
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