「デキルヤツノ条件」

16:非情のコメントブレイカー(後編)
〜載らない理由と、笑顔の行方

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2008年6月20日(金)

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承前

 コメントを投稿したものの、掲載されなかったという経験のある方もおられるだろう。

 何故、掲載されないかというと、あまりにもひどい内容だったからだ。
 連載を始めるとき、担当編集者と著者さんは“コメントの掲載について”事前の打ち合わせをする。私も訊かれた。あまりにもひどいコメントが寄せられることもあるが、それはどうするかと。

「いいよ、全部載っけて」
「いいんですか、本当に」
「いいさ。そのほうが面白いじゃん」
「いいんですね。本当に全部載せちゃいますよ」
「いいって言ってんだろう。見てなって、面白いことになるから」
「いいって言いましたね。言いましたよね。本当に載せますよ、載せちゃうんだから」

 という、たいへんアバウトなのか計画的なのかわからないやり取りがあって、このコラムには、好意的なコメントも、批判的なコメントも、批判しているらしいことはわかるけど何が言いたいのかよくわからんというコメントも、悪意のみで書かれたに違いないというようなコメントも分け隔てなく掲載してもらっている。

 が、それでもときどき編集部判断で弾くようなコメントもくるらしい。コラムの内容にはまったく触れず、ただ誹謗と中傷を綴っただけのものだ。他の著者さんでもあるとのことだが、掲載されなかった経験のある方はそういうものを書いたということです。

 とはいえ、掲載はしても、コラムの本筋とはまったく関係ないコメントが8割以上なんですけどね、私に寄せられるご批判は。この連載の第1回めで、そのうちタイトルと内容が一致しなくなるかもしれないと書いたけど、コラムの本筋とコメントの乖離のほうが早かったような気さえします。だからこそ前回と今回のような企画が実現するわけですが。

 さて、これまでにこんなコメントを7件いただきました。部分的に抜粋します。

『私怨は個人のブログでお願いします』
『そういうのは個人のブログでしていただきたい』
『私憤は自分のブログでどうぞと書かれて当然』
『ブログ程度にとどめてください』
『お仕事としてのコラムと個人的なブログとの区別はもう少しつけて頂いても良いかなと思います』
『素人のブログでも十分』
『私的感情を発表する場が欲しいのならば、ブログが適当かと思います』

 私はブログというものをやっていないし、たくさんのファンがいるとか、しょっちゅう告知するようなことがあるのであればともかく、文章を売ることを生業にしているので無償で開設するブログに意義を感じないからやっていないのだけど、たった7件とはいえ、このコメントがとても怖ろしい問題をはらんでいると感じたのは私だけだろうか。皆さんは何も感じませんでしたか?

 このコメントが掲載されたのは、言わずと知れたクロネコヤマトサムライの回だ。コメント欄には“クレーマー”“私憤”といった文字が踊り、たいへんな盛り上がりをみせたので記憶にも新しいと思うが、その中にこの7件が含まれていた。

 この7人が言わんとしていることはこうだ。ブログでなら私憤をいくら書き連ねてもいいし、他人をこきおろしてもいいと。

 私はやりきれない思いを感じてしまったのだ。脱力感とでも言えばいいのか。

 そして、この7人の“倫理観の欠如”を疑わずにはいられなかった。すっかりネット社会に毒されてしまったのかもしれない。私憤はブログで晴らせとは。あるいは、ブログでなら私憤を晴らしてもいいという概念を刷り込まれたまま、こんにちに至っているのか。

 いずれにしても、底の浅い人たちだという印象を拭いきれなかった。私が書いたことに眉を顰めるより、ネット上の“無法”に眉を顰めるほうが意味はあると思うんだけど。それとも、こういう人たちが自分のブログに“デキルヤツノ条件の作者はとんでもないやつだ”とか書いちゃうのかしら。書くだろうね、私怨はブログで、と私に勧めるくらいだもの。

 と、ここまでは前振り。前回に引き続き、今回も厳しいことを書きます。

 人は何故、人を批判したり攻撃したがるのかを考えてみた。理由→私のコラムに批判的なコメントが多いから。結論→私が批判されるようなことばかり書いているから――、という構図だったら楽なのですよ。しかし、現実はどうもそうじゃないらしい。いや、もちろん、私への反感から悪意を込めたコメントが寄せられるケースもありますが。

 前回も触れたように、読者から寄せられるコメントは世相を反映し、日本の現状を映し出します。これは他の著者さんのコメント欄でも垣間みることができるのです。私自身のコラムを含めて、とにかく批判が多い。攻撃的な批判です。それが驚くほどに多い。

 何故か――?
 私は、フラストレーションの表れだろうと思っている。

 ストレスを溜め、苛立ちを募らせ、理由もなく怒りが鬱積している人が多すぎるような気がしてならない。これほど怒りっぽい人が多いということは、決して良いとは言えない日本の状況を示唆していることにも他ならない。

 つまりは、満たされていない人が多すぎるのだ。だからこんなことを想像する。

 いま置かれている状況に、その人は満足していない。その人には、何かしら“面白くないこと”や“気に入らないこと”があるのだろう。それが何かはわからない。もしかしたら、本当は周囲には認めてほしいのに誰も認めてくれないのが面白くないのかもしれないし、自分より劣っていると思っていたやつに先を越されたのが気に入らないのかもしれない。

 こんな理由ならいくらでも考えられる。実際にいそうだもの、こういう人。

 俺には実力があるのに誰も振り向いてくれない。讃えてもくれない。一目も置かれない。チャンスも与えられない。誰も自分のことを気にかけてくれない。人気もない。上司はあいつばかりを褒める。気がつけば仲間にリードを許し、年収でも差をつけられている。週刊誌がときどき特集を組む“30歳課長・40歳部長の年収”一覧の記事を見て、自分との違いに愕然とし、腹が立って仕方がない。あるいは、自分だけが取り残されてしまったかのような不安や焦りに苛まれる。

 世の中を見渡せば、うまくいってるやつと、そうでないやつとのコントラストが目に見えるかたちで色分けされている。それが格差社会であり、流行語にもなった勝ち組と負け組だ。誰もが勝ち組にいる自分を願うが、残念ながらその人に勝ち組の扉は閉ざされたままだ。どうして俺には道が拓けないんだ、どうして俺だけがこんな目に遭わなければならないのだ、とその人は自分の“不運”を呪う。

 そして、怒りだけを溜め、他人を羨み、妬み、時代を恨む。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

デキルヤツノ条件

 誰にでも、周囲に一目置かれ、デキるヤツと思われたいという願望はある。仕事がデキる、部下にも人望がある、仲間にも信頼される、ユーモアのセンスがあって異性にもモテる、金離れもいい、常に自分を磨いている、同性から見ても魅力的だ、セクシー、ダンディ、クール、エトセトラエトセトラ――、数え上げればきりがない。「長目飛耳」の降旗学が、どういうヤツをデキると言うのか、“デキるヤツの条件”を世相と照らしあわせながら探ります。なお、お読みいただくに当たり筆者からひとつお断りがございます。 こちらの文末をご覧下さい

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