あたしなんてもう結婚できない――、とその女性は泣いた。
私が泣かしたわけじゃないのだけど、泣いちゃった。話しているうちに感極まって。
表参道をちょっと入ったところにあるとあるバーでの出来事である。周囲の目もあり、たいへんバツが悪い中、何か慰めの言葉でもかけてやらなければと思いつつも、こういうときは放っておくのがいちばんだと思いなおすと、私は組んだ指の上に顎を載っけて視線を逸らし、ぼんやりと壁の絵画を見やっていた。
泣きたいときは泣いたほうがいいのだ。吐き出すだけ吐き出せば、あとは案外と早く立ち直ったりするからね。できれば、もう少しシチュエーションを考えて泣いてほしいところですが。中島みゆきも古いアルバムで歌っている。泣きたい夜に1人はいけないと。あれはちょっと意味が違うか。
しかし、周りから見れば、私はカノジョを泣かせた悪いやつなのである。たいへんな誤解を受けてます。滅多にあることじゃないし、しょっちゅうあっても困りますが、ハンカチで目元を拭う女性というのは、どうしてあんなにも美しく、清らかに見えるのでしょう。男が単純なのがよくわかります。
その女性には離婚歴があった。都内ではとてもよく知られたエスカレーター式のお嬢さま学校の短大部を出て、とてもよく知られた証券会社に入り、社内恋愛をして20代の半ばでいわゆる寿退社。お相手は社内のトップ3に入る営業成績をおさめて表彰されるような優秀なビジネスマンだった。
が、ちょっと女癖が悪かった。結婚して1年にも満たないうちに、研修を終えて間もない新入社員と仲良くなりすぎて、ときおり外泊もするようになった。俗に言う不倫です。それが原因で離婚。彼女はシングルに戻り、何年か派遣で働いた後にいまの会社に正式採用された。その間に、彼女が結婚前に勤めていた証券会社が破綻したことだけお知らせしておきます。読者の中には、あの証券会社に勤めていた方もおられるかもしれません。
この女性はとても家庭的な人だった。もともとそういう性分らしく、手抜きや妥協というものをいっさい許さない。知らないのかもしれない。家事全般が行き届き、家はいつもぴかぴかに磨き上げられ、本や資料をどかさないと掃除機もかけられない我が家とは大違い。料理にいたっては当たり前のようにカレーはルーからつくるし、ドレッシングやマヨネーズ、漬けダレなども全部手作りです。家事なんていかに手抜きができるかで決まるのよ、と愚妻が助言しても聞きません。お前が言うなと言いたいけれど。
我が家にも何度か遊びに来たことがあって、そういうときは家内に代わって手料理なんかをふるまってくれたりして、テーブルにはそれはそれは見事な料理が並んで家内などはそれはそれは大喜びで、毎週遊びに来てくれないかしら、などとばかなことを言うほどで、できれば私もそうしてほしいと思うくらいだけど、正直なところ、家庭的すぎる人もちょっと困りものだなと思う場面もなくもなかったりした。
彼女がつくった料理を、ふだんご馳走というものから縁遠い生活をしている夫婦が嬉々としていただく。とても美味しい。だからぱくぱくといただく。たちまち器の料理が残り少なくなる。すると、彼女はすっと席を立って、何をしているかというと、器が空くのを待っているのである。おまけに、早く食べちゃってなどと言う。器が空くと流しに運んで、もう洗い始めている。
「洗い物はあとでやるからさ、一緒に食べようよ」
「ええ。でも、いまやっておいたほうが楽だから」
といった感じで、テーブルに並んだ料理の一品一品が片づけられていく。
食後のコーヒーを煎れ、彼女が自宅でつくってきたという手作りケーキがふるまわれるころには流しの洗い物はすっかり終わり、残った煮物や惣菜はタッパーに詰められて冷蔵庫にしまわれているのだが、私はちょっと落ち着かないのだ。食後の光景が、あまりにも我が家と違う。我が家なのに。
「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど、いつもこんな感じ?」
「いつもって?」
「いや、家でも、いつもこんなにテキパキしてるのかなって」
「変わらないわよ」
シングルに戻ってからも、という前置きは省いたが、どうやらそうらしい。私に切られたケーキが残り少なくなると、もう席を立っちゃうし。その手際のよさに、すごいわねえ、などと言いながらケーキをぱくついている暢気なやつもいましたが。お前も少しは動け。
彼女は上から下までぴしっとしたブランドもののツーピースを着込み、思わず仕事帰りですか、と訊きたくなるような恰好で来宅していた。週末だったんですけどね。これには理由があって、彼女は、間違いなく皆さんもご存知の企業の社長秘書を務めていたのだ。
最初は事務職で採用されたらしいが、てきぱきした働きぶりが人事部に認められたか社長サン本人の目に留まったか、入社から2カ月もしないうちに社長秘書を命じられ、2年後には3人いる秘書サンの秘書頭のような役割を任されていた。
多忙な社長サンらしく、というか、私の目には完全に彼女に頼り切っているようにも思えるのだが、週末でもひっきりなしに連絡が入り、呼び出されることが多いのだという。彼女がスーツ姿で来宅したのは、いつ呼び出されてもいいように対処していたからだ。さらに言えば、彼女は午前中に手作りケーキをこしらえ、午後は学生時代から習っているという社交ダンスのレッスンを終えて来宅し、家内に代わって我が家の台所に立った。このときの家内はテレビの料理番組にあるようなアシスタントの役割。というか、それ以下。味見してスゴイ、美味しい、早く食べたいを連発するだけだったら私だってできる。どうして彼女の手際のよさやレシピを教わろうとしないのだ、こいつは。
一度、彼女のオフィスにお邪魔したこともある。
ちょうど海外取材に行く予定があって、現地の支社長を紹介してもらうという理由で挨拶とお礼を兼ねての訪問だった。オフィスでの彼女は颯爽としていた。社交ダンスをやっているからか、背筋もすらりと伸びててね。かなりの美人だし。それで秘書に抜擢されたのかもしれない。
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