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現実は妄想をなぜ止められなかったか

  • 小橋 昭彦

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2008年7月9日(水)

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ムラからの手紙

 お元気でしたか? しばらくぶりの手紙になります。

 先日の、秋葉原における無差別殺傷事件は、あなたにとっても衝撃的だったのではないでしょうか。現場はあなたの生活圏内でしょうし、犯人の年齢も近い。どのようにとらえられたでしょう。ぼくはといえば、これは今回の事件に限ったことではないのですが、事件の一報を聞いてまず、なぜ止められなかったのか、という思いがわきあがってきました。なぜ起こったのかではなくて。止められなかったといっても、周囲の人がという意味ではなく、本人の心のブレーキとしてという意味です。

 それというのも、自分は劣っている、受け入れてもらえないと考えてしまう、焦りのような破壊衝動を、ぼくはわかる気がするんです。

暴力性自体はあたりまえのもの

 もっと言えば、自分もそんな気持ちを抱いたことがあったと思える。だから、なぜ起こったのかという問いは、想像力を欠いているように感じるのです。あなたにはありませんか、自分がヒーローになって、悪者を倒していくと空想したことが。この場合の悪者は空想上の存在ですから、具体性は不要です。だからひょっとすると、ただ自分の力を証明したかっただけかもしれない。ぼくならば、そう、十代初めの頃、アニメの主人公が持つレーザーガンを打ち、教室の窓から空を飛んでいく、そんな夢想をしたことがあります。幼稚な夢ですが、今、そのときの気持ちを掘り起こしつつ、仮にあの地点をたどっていけば、犯罪への通路につながっていたかもしれないと、戦慄する思いがある。

 ハリウッド映画などでヒーローが相手を倒していくとき、ぼくたちが感じるのは嘔吐感でしょうか。いや、むしろ爽快感であることを思うとき、この、自らも暴力行為と隣り合っていたかもしれないという戦慄は、少なからぬ人に心当たりがあるのではないかと想像するのです。決して犯人の行為を認めるということではなく、むしろその行為を止めるために、ぼくたちは自分の中の暴力性と向き合わなければならない。そこから目をそむけ、妄想そのものを不可解なものと考えることは、社会的な不寛容や排除の姿勢であり、次の犯罪者を追いつめることになりかねない。

「普通は」犯罪とは違った道で滅却・抑制される

 ただ、いくら破壊衝動を自らの内に認めたといっても、それが決して実行されることがなかったのも事実です。妄想と現実の間には超えられない、超えてはいけない壁がある。

 秋葉原無差別殺傷事件の犯人はワイドショー独占が夢と表明していたようですが、注目されたいという思いだって珍しいものではない。ぼくがあなたの頃にも友人とよく言い合っていたものです。ただ、そんなとき決まって口にした冗談が、「(事件を起こして)三面記事のトップだったりして」でした。

 事件を起こすってことは、冗談の世界でしかなかったし、そちらの道に進むなんて愚かなことと知っていた。もちろん十代初めのぼくもそれはわかっていて、夜の床で妄想を抱いたにしても、朝には普段どおりに起き出し、学校に出かけ、いつもと変わらない日を過ごす。妄想そのものは誰でも持ちうるにしても、通常はなんらかの力がはたらいて抑制され、現実の行動につながることはないのです。どこかの段階で妄想は抑制、あるいは滅却される。

 重要なのはここです。

 自分の場合は、そして多くの人においては何らかの機構がはたらいて妄想を止められたのに、無差別殺人の犯人においては、実際にナイフを持って(あるいはアメリカなら銃を持って)、人に向けるところまでいってしまった。それはなぜか。自分を止めたのは何で、犯罪者においては、なぜ、それが存在しなかったのか、あるいははたらかなかったのか。それを問わねばならないと思うのです。

 妄想そのものを特殊なものとして、芽生えた理由を問うことには、意味がない。ぼくたちはどうしてもそれを特別視して、たとえばネット掲示板や携帯電話などの情報ツールに原因探しをしがちですが、本当にそこに根本的な要因があるのでしょうか。それよりも、われわれの社会が、妄想を抑止し、現実を取り戻す機構を喪失してしまったのではないでしょうか。なぜ起こったのか、ではなく、なぜ止められなかったのかを問うとは、それを明らかにしようということです。

妄想と現実の境界を自覚する、それはどこで?

 妄想と現実といえば、あなたは「セカイ系」と呼ばれる物語は好きですか。セカイ系というのは、(自分探し的な)自分の行為がセカイの命運につながる設定の小説やゲームやアニメのことと、ここでは定義しましょう。たとえばセカイ系の代表作のひとつとされる秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』では、学園生活の延長に世界の危機がつながっている。自分という存在あるいはそれが行う行為は、対人関係や中間的な組織の網目を経由することなく、セカイにつながっている(「彼女」を介して、という形が多かったりします)。

 個人的には、けっこう共感する部分が多い設定で、ぼくはそこに、十代の初めに抱いた幻想との共通性を感じます。ふだんは目立たないぼくだけれど、実はレーザーガン片手にセカイを守るヒーローなんだ、と。妄想の中の自分は、友人関係を飛び越えて、いきなりセカイの中心です。

 もっとも、現実の世界では、自分と世界の間にはたくさんの要素がつまっていて、自分がそのまま世界の主人公になることはありません。ぼくたちと世界を直接つなぐ「彼女」がいたりはせず、世界との関係は、目の前の対人関係や、身近なコミュニティからこつこつと築き上げるしかない。

 ここにどうやら、先ほどぼくが問いかけた疑問の変奏が見られそうです。セカイ系の思いを抱くのは仕方ない、というかむしろ十代の特権であり、誰もが経たとしておかしくないものだけれど、では、こうした妄想のセカイと現実の世界は、どこで切り替えられるのでしょうか。その接点はどこで見出されるのでしょうか。

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