「デキルヤツノ条件」

26:あいつへの借りのかえし方

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2008年9月1日(月)

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 思うところあって、京都に行ってきた。

 そうだ、京都に行こう――、というあのフレーズが頭に浮かんだから古都を訪れられるようであればよいのだが、残念ながらそうではない。友人が離婚したのである。20年来のつきあいになる親友で、というよりは悪友。マブダチ。どうして親友のことをマブダチというのかはわかりません。もしかして“間夫”が語源とか。間夫どおしが仲良くなって……、いやいや、まさか。

 あいつを少し励ましてやるか、といった気分で私は京都に向かったのである。

 間夫……、じゃなくて、マブダチがシングルに戻れば傷心もしていることだろうし、親友としては駆けつけないわけにはいかないではないか。私は友だち思いなのだ。ついでに京都案内でもさせれば旅行気分にも浸れるし、うまいこといけばコラムのネタにもなる。さて、本音はどれでしょう。

 誰にでもかけがえのない友人はいると思うが、私の場合は彼がその1人だ。

 齢を重ねれば重ねるほど友人というのは貴重な存在になり、何の打算もなくつきあえる関係ともなれば、友の存在はそれだけで財産と言ってもいいほど大きな意味を持つ。と私は考えている。この一文を軽く読み飛ばせる人に真の友はいないと思います。

 かけがえとは漢字で書くと“掛替”となり、もともとはスペアーの意味だ。つまりは予備です。したがって、かけがえのないとは“代わりがない”ということで、唯一無二のものを指すようになった。らしい。すると私などは、うーむ、と腕組みなんぞしてしまうわけだ。

 思い起こせば、私には掛替のない女性がどれほどいたことか。

 不思議ですね、そのときはこの人こそ掛替のない女性だと思っていたのに。若かりし頃の私たちは、恋に落ちれば決まって“俺にしてみりゃこれが最後のレディ”と心で歌っていたのに、気づけばその“最後”の多いこと多いこと。家内なんか何番目の“最後”になるのだろう。おそらく私はもう最後だと思っているが、この友人はどうやら最後ではなかったらしい。

 掛替のないとは、要は波長でありバイオリズムなのだ。とも思っている。考え方や嗜好、あるいは感性が似ていたり、おふざけのレベルが同じだったり、怒りの臨界点を互いに測り切れる関係だ。感覚で相手の心理状態を読める関係をウマが合うという。

 もっとわかりやすく言うと、理論武装も警戒もすることなく、無防備に心をさらけ出せる相手のことだ。こいつの前でカッコつける必要もないし、隠し事は要らんな、と思える相手がマブダチなのである。胸に一物持っているようなやつにはこちらも心を開くことはできないし、だからダチにはなれない。信用もできない。相手を慮る気持ちは大切だが、本音で言いたいことを言い合える友だちがいない人は可哀想だ。その人のことを本気で心配してくれる人がいないからだ。逆に、その人には本気で心配するような人もいない。それを孤独という。そういう悲しいやつが犯罪を犯す。

 あくまで個人的な考えで、だから声を大にして言うほどのことでもなく、良い子のみんなは絶対に真似しちゃいけないことだが、私は“殴り合い”の喧嘩をしたことのない人も実は内心では可哀想だと思っている。原則的に暴力は反対ですけどね。殴り合いに発展するまでの経緯はさておき、人を殴る、あるいは殴られる。そのとき、何がいちばん痛いかというと、殴られた頬でもなければ相手を殴った拳でもない。心がいちばん痛いのだ。

 これだけ言ってもまだわかってくれないのかというときもあるし、殴り合う以外に方法がなかったのかとひどい嫌悪感を覚えることもある。心が痛むのだ。落ち込みもするし、こいつとはもう友だちじゃいられないと思えば、自分の中の何か大切なものが落剥したような虚しさにも駆られます。立ち直るにも時間がかかるし。少年はそうやって青年になり大人になるのだけど、良い子のみんなは絶対に真似しないでネ。

 とはいうものの、あくまで個人的な経験から言わせてもらうと、私がいまも無防備につきあえる友だちはというと、殴り合う寸前の大喧嘩をしたか、実際に殴り合ったことのあるようなやつばかりだったりする。殴り合ったからわかりあえる――、なんてことを言うと暴力を奨励しているように受け取られかねないので言わないし言えないが、まっとうに生きていれば他人に殴られる、他人を殴るなんてことは皆無に近いわけで、心の痛みを感じる殴り合いは実は貴重な経験でもあるのです。少年はそうやって青年になり大人になるのだけど、良い子のみんなは絶対に真似しないでネ。

 京都に住む友人が離婚したのは、梅雨明けのころだった。

 1年前の今頃、仲間どおしで集まったときに本人からそれっぽい話が出て、私は無関心を装っていた。これが独身だったら、何であんなにいい娘と別れるんだ、と一言二言……、おそらくはもっと苦言を呈すなり叱りつけるなりしただろうが、夫婦間の問題については口をはさまないようにしている。というより、嘴を容れてはならないと私は思っている。

 法律で認められた夫婦がその関係を解消するか否かを決めるのは、あくまで当人どおしだからだ。だからたいがいは無視を決め込み、事後報告だけを聞くことにしている。恋人どおしが別れるのと、一度は家庭というものを築いた夫婦が別れるのでは意味が違うのだ。重みも違う。私にできるのは、別れるかどうするかの相談にのってやることではなく、離婚した友人を励ますことくらいだ。だってわからないもの、いくら親友でもどんな夫婦生活を送っていたかなんて。

 その日、私は出張で京都に行くから晩飯でも食おうと連絡を入れていた。

 年に一、二度は京都を訪れているので、そのたび都合がつけばこの友人を呼び出して会ってはいた。彼に時間がなければそのまま帰るし、駅周辺のコーヒーラウンジで小一時間ばかり話すだけのこともあれば、食事をして彼の家に泊めてもらうこともあった。今回にかぎり嘘をついたわけだが、こういうとき私の仕事はたいへん便利ではある。いや、友人の離婚ネタでコラムなんか書いているのだから出張というのもあながち嘘ではないか。何でもネタにしちゃうよ、私は。神さま、どうか友だちが減りませんように。

 夕刻の6時過ぎ、仕事を終えた友人と駅前のホテルで合流した。

 よぉ、と言う友人の顔が心なしはにかんで見えたのは、やはり離婚の照れ隠しか。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

デキルヤツノ条件

 誰にでも、周囲に一目置かれ、デキるヤツと思われたいという願望はある。仕事がデキる、部下にも人望がある、仲間にも信頼される、ユーモアのセンスがあって異性にもモテる、金離れもいい、常に自分を磨いている、同性から見ても魅力的だ、セクシー、ダンディ、クール、エトセトラエトセトラ――、数え上げればきりがない。「長目飛耳」の降旗学が、どういうヤツをデキると言うのか、“デキるヤツの条件”を世相と照らしあわせながら探ります。なお、お読みいただくに当たり筆者からひとつお断りがございます。 こちらの文末をご覧下さい

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