今回お話をうかがったのは、京都の老舗和菓子店の山口富蔵さん。京菓子の伝統を守りながら、その一方で、新しい趣向を盛り込んだ菓子作りにも挑戦されている。
山口さんが作る末富のお菓子をいただきながら「なるほど」と思ったのは、京菓子には、それが成立した当時貴重だった砂糖とそこから得られる「甘み」というものを手にする喜びが背後にあることだった。
お茶会の、お菓子が出てお茶が出て、という流れは結局甘みという貴重なものを慈しむ文化なのだと、あらためて感じた。最近でこそ「甘さ控えめ」などと言われているが、お菓子の原点は甘みを味わうというところにある。
単に「甘いもの」を食べるということを、あそこまで洗練させていったのは凄いことだ。お茶は、道具だてにしても、どこにでもある竹を切って利用するし、野の花をさりげなく活けたりする。そうした京都の文化の洗練というものは、ある意味で米国の文明に象徴される高消費文化の対極にある。
そこに、これからの我々の社会全体にたいして大きなヒントがある。
経済のソフト化が進み、単にモノを作っているだけではすまなくなってきている。地球環境の問題などにも配慮しながら大量生産・大量消費ではないかたちで経済活動をしていかなければならない状況のなかでは、広い意味での「遊び」をもっと真剣に考えたほうがよいと思う。
甘みを単に「甘いもの」としてしか捉えない「スイーツ」という言葉は嫌いだと、山口さんはおっしゃっていた。
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