東京の練馬区立美術館において、没後一周年を記念し、「高山辰雄遺作展―人間の風景―」が開催されています。
本展は前期9月13日〜10月5日、後期10月11日〜11月3日と、前期と後期で作品が入れ替わる構成となっており、戦前、戦後を通じて日本画壇に大きな足跡を残した高山辰雄の初期から絶筆までの105点を一堂に展示、その偉大な画業を回顧する展覧会となっています。
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早熟の天才・高山辰雄
まずは高山辰雄の画業を振り返ることにしましょう。
高山は、明治45(1912)年、大分県大分市に生まれました。昭和6(1931)年に東京美術学校日本画科に入学。在学中から松岡映丘の画塾「木之華社」に入門し、早くから師・映丘にその才能を見出されていました。
昭和9(1934)年に、第15回帝展には「湯泉」が初入選。東京美術学校在学中の2年生から、すでに特待生となっています。
卒業後は映丘門下の山本丘人、杉山寧らが結成した新日本画研究団体「瑠爽画社」に参加。新しい日本画の創造を目標に創作活動を続けました。戦後はポール・ゴギャンの画風やその強い生き方に影響を受け、形態の単純化や色彩の平面化を試み、自然と人間への強い関心を示す重厚で精神的密度の高い作品を発表します。
昭和57(1982)年、文化勲章を受章してからもなお、伝統的な日本画の世界には安住せず、新たな可能性を追求しながら制作活動を続けました。
挫折と苦悩を抱え続けたゴーギャンに自身の人生を重ねる
さて、高山芸術の大きな転換点となったポール・ゴギャンとの邂逅は、実は先輩・山本丘人の示唆によるものでした。
終戦直後の昭和21(1946)年、第1回となる日展が開催されました。ここに高山は、喰うや喰わずの生活の中、苦心惨憺の末に制作した「子供と牛」を出品しますが、あえなく落選してしまいます。
当時の高山は貧窮を極め、自身の絵の方向は定まらず、不安と焦燥にさいなまれる日々を送っていました。その生活に加え、落選という人生の苦杯を嘗める頃、高山は、たまたま山本丘人に薦められたゴーギャンの伝記を読み、強い衝撃を受けました。
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