あくまで個人的な経験と感想に過ぎないのだが、男性には、あるとき不意に考え方や視野ががらりと変わってしまう“年齢”があるように思っている。
自分の中で何かが切り替わる年だ。
女性にもそういう年齢があるとは思うが、おそらく、それは男性とは違う。
たとえば、日本ではいまのところ20歳をもって“成人”としている。悪いことをすれば、今度は少年Aでなく実名報道される年齢だ。法的にも分別ある“大人”としてみなされるのである。分別ある大人だから、当然、分別ゴミも分けて出さなければならない。女性の場合、ティーンエイジャーという年代は特別じゃなく、どこにもいる少女Aがとても焦れったいらしいが。若い子にはたぶんわからない話。ナツメロだ。私はジュリアにめろめろだ。カリメロではない。
しかし、男性は20歳になるより19歳になったときのほうが“大人”になったような気分になるのだ。私はそう思っている。何故かというと、甲子園で熱闘を繰り広げる球児たちが、いずれも自分より年下になるからだ。私がずっと野球をやっていて、しかも高校球児で甲子園を目指していて、その甲子園がもう目標ではなくなったから虚しさを覚えたと言っていいのかもしれない。
あそこで闘っているのは私より年下の男の子たちばかりなのかと思うと同時に、どんなに願ってももう応援することしかできなくなった自分への虚しさだ。すると、たかだか19のくせに、自分が何だか老けてしまったかのような錯覚にとらわれる。少なくても私はそうだった。
そして20歳になり、25歳“ヴァンサンカン”を迎え、還暦の折り返し地点となる30歳を節目に、私たちは青春時代に別れを告げて“朱夏”の仲間入りをする。
少年は青年になるのである。
少女はいい女になるのである。いい女はやがてとびっきりいい女になって、さらに色っぽい女になるのである。色っぽさはやがて艶っぽさへと変貌を遂げ、だから、女性はいつまでも色褪せてはならない。ずっといい女でいてほしい。それが私の願い。そんなことはどーでもよろしい。ここは私の願望を綴るところではない。こういうことを書き始めると、きっと前振り復活とか脱線再開と言われてしまう。気をつけよう。
30歳を節目に、私自身や私の周囲でもさまざまなことが起きた。
結婚や出産という大きなイベントがあったり、人生の勝負を賭けたりする年齢がおそらく30歳だ。やんちゃな青臭さと社会的な責任感とが同居する年代でもあるから、気持ちが揺れ動きやすい時期でもある。ビミョーなお年頃なのだ。
ヴァンサンカンから30歳にあたるこの時期、睡眠時間を削ってでも大いに遊び、大いに仕事に打ち込まないと、きっと後々悔やむことになる。若い人は覚えておくように。気力と体力がいちばん充実している時期なのだ。どんな無茶でもできて、それが許される最後の時間だ。
その年代を過ぎると、男性はいまごろの秋刀魚のように“脂がのりきった”年代と言われるが、35歳を境に体力がぐんと落ちる。やる気と気力は漲っていて、キャリアに相応しい仕事をこなすことができるようにはなるが、実に悲しいことに、やる気はあるのに体力がついていかなくなるときがあるのだ。
気力と体力の反比例が始まるのである。
徹夜がしんどくなる。疲れが残る。あるいは、若造と思っている若い人たちの有り余るような体力をまざまざと見せつけられるような場面に出くわし、おかしい、こんなはずじゃないのに、と首を捻っている自分に気づいたりもする。
同年代のプロスポーツ選手が引退するのもこの年代で、さきの高校球児同様に、スタジアムでファンの大歓声を浴びる選手らがみな年下かと思うと、えも言われぬ虚しさに拍車がかかる。ミュージックシーンで活躍するアーティストはみんな若い子ばっかりで、青臭いことを歌っているようにも感じられて、ちょっとついていけない。
これが年をとるということかと実感し、数年後に訪れる40歳という年齢を意識すると、青春時代とは遠いところに来てしまったような郷愁に誘われ、年をとるのが何だか怖くなってしまう。
見渡せば、あきらかに不自然な頭髪だったり、着ぐるみでも着ているのかというような友人がいたり、若い頃のようにドカ食いをすれば胃もたれを起こし、若い頃のように浴びるほど飲めば文字どおりの痛飲となって後悔することになる。ずっと30インチをキープしていたジーンズのサイズを31インチにしなければならなくなったときの落ち込みと言ったら……。
若い頃の私は、寝るのが勿体ないくらいに思っていた。だから寝なかった。寝ないでふざけてばかりいたのだが、いまは違う。寝ないとふざけられない……、のではなく、寝ないと身体がもたないのだ。中年。それどころか、さっき休んだばかりなのにもう朝か、といった感じで目を覚ます。光陰矢の如し。
そして、いつも何かに追われているような錯覚にとらわれる。〆切には追われてるけど。
人生に疑問を感じたり、自分の来し方はこれで正しかったのだろうかと不安になるのが、40歳を意識し出した30代の後半だ。ニコラス・ケイジ主演の「天使のくれた時間」は、そんな物思いに耽り始めた頃に観た映画だった。今回は、この物語を。
この映画には、キーワードのように“人生設計”という言葉が出てくる。
上映は西暦2000年。ミレニアムの年だ。物語はその13年前、1987年に始まる。
いきなり男女の別れのシーンからだ。場所は空港のチェックインゲート。女は男に言う。行かないで、と。しかし、ニコラス・ケイジ扮するジャック・キャンベルは、諭すようにこう応えるのである。
「僕らの決断を信じよう。きみは一流校で法律を学び、僕はイギリスの大手銀行で研修……、すごい人生設計だ」
「すごいことをしたければ、人生設計は忘れて、いますぐ結婚しましょう。未来はどうあれ、離ればなれにならずにすむわ。人生設計は問題じゃない、一緒にいてこそ幸せなの」
のっけから身につまされる会話を聞かされるのだ。
しかし、彼は旅立つのである。旅立てジャックなのである。
誰にでも似たような経験はあるはずで、若い頃には恋を選ぶか仕事を取るか、あるいは、ガールフレンドと人生を天秤にかけることはあるものだ。どちらか一つしか手に入れられない選択を迫られるときが、人生には必ず一度や二度や三度や四度……、人によってはもっと訪れる。
訪れないわけがなく、ないという人はいったいどんな人生を歩んできたのだろうと私などは思ってしまう。これは、あなたが選んだ人生が正しかったのかを遠回しに問う映画なのだ。実に古傷が痛む。
映画のニコラス・ケイジは“野心”を選択していた。
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