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『文章は接続詞で決まる』 石黒圭著、光文社新書、760円(税別)
文章を推敲するさい、手を加えられるのはどういうところか。人によってさまざまだろうが、評者の場合、真っ先にチェックするのは「逆接」である。
もうともかくちょっとでもうかうかしていると、「〜が…」「〜だが…」「しかし…」「〜けれども…」といった言い回しでだらだらと文を連ねてしまうのだ。酷いときには一文に「〜が」が三つくらい並んでいて、反対の反対の反対だから賛成の反対なのか? と自分で首を傾げるバカボンのパパ状態の文章がこねくり出されていたりする。
「がーがー、おまえはアヒルか」とブツブツいいながらチェックしていき、余分であれば削る、削れないときはべつの逆接表現に置き換える、という作業からまず取りかかることになるわけだが、推敲というとほとんどそればかりやっているような気さえする。
いまや古典の『論文の書き方』(岩波新書)で清水幾太郎も注意を促していたように、他人の書いたものを読んでも、無防備に逆接を垂れ流している文章にはけっこう頻繁にお目にかかる。ということは、逆接だらだら問題は、個々人の手癖というよりも、「接続(助)詞」という日本語の特性に拠るものと考えたほうが妥当だろう。
にもかかわらず、逆接にかぎらず、接続詞というものを正面切って扱った本というのは見たことがなかった。
もうおわかりのように、本書はまさに接続詞だけに焦点を絞り体系づけて論じたレアな一冊なのだが、文章論が専門の著者によると、研究書がなかったのは〈専門家のあいだでは、(接続詞は――引用者補)あまり人気のあるテーマではない〉からだそうだ。
そんだけかいっ! と突っ込みそうになるのを抑え続きを読んでみよう。
〈その理由は、一つには、接続詞が一文の構造とは直接関わらない周辺的な品詞だからでしょう。また、動詞や助詞などにくらべて、論理が見えにくく、わかりにくいという事情もあります〉
わかりにくいのは、接続詞というもの自体の曖昧さにも原因があるという。ほとんどが他の品詞からの借物であるため、副詞(とくに、とりわけ、ただ、むしろ……)や指示語(これ、それ……)、接続助詞(〜が、〜けれども……)と区別するのがむずかしく、びっくりすることに、接続詞という品詞自体を認めない立場の人もいるそうなのだ。
実は非論理的で、主観に左右される接続詞
そこで、第一章「接続詞とは何か」と第二章「接続詞の役割」ではまず、接続詞の機能を洗いなおし整理したうえで、新定義がこころみられる。
〈接続詞とは、独立した先行文脈を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である〉
従来の一般的な定義は「接続詞とは、文頭にあって、直前の文と、接続詞を含む文を論理的につなぐ表現である」というもので、較べると、「文頭」「文」「論理的」が省かれ、代わって「文脈」「展開の方向性」が置かれていることがわかる。
つまり接続詞は、かならずしも文頭にあるとはかぎらないし、つなぐものは「文」ばかりではないし、論理的であるともいえないというわけだ。
接続詞が思われているほどには論理的ではない例として、著者は次のような文章を示す。
「昨日は徹夜をして、今朝の試験に臨んだ。しかし、結果は〇点だった」
「昨日は徹夜をして、今朝の試験に臨んだ。しかし、結果は一〇〇点だった」
同じ「しかし」でつながれているのに、後続文はまったく反対の内容で、しかしどちらも成立している。
接続詞の論理は、文章と文章の関係に客観的に内在しているものではなく、その関係を書き手がどのように意識しているか、また読み手がどのように受け取るかによって決まる〈解釈の論理〉なのだと著者はいう。接続詞は、解釈の「方向性」を指し示すべく主観的に選択されるものなのだ。
この他いくつかあげられているサンプルから、逆接がだらだら続きがちな理由も見えてくる。著者はこう説明する。
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