「シネマde青春」

「自分の何を差し出せば愛する者を救えるのか」
〜第16回:リバー・ランズ・スルー・イット

「差し出しても拒まれるかもしれない。抱きしめようとしても、思いは腕のあいだをすり抜けてしまうかも……」

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2009年1月16日(金)

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 2007年に起きた殺人事件1052件のうち、被害者が“親族”だったケースがそのうちの503件を占める――、という記事を読んだのは、ちょうど1年前のいまごろだった。

 パーセンテージに直すと47.8%である。

 親族とは、民法上の六親等内の血族および配偶者と、三親等内の姻族を指す。

 と、私が常用している広辞苑の第3版にはある。したがって、私から見ればおじ・おば、従兄弟・従姉妹の配偶者、甥・姪までを指す。すると、業界用語で言うところの“コロシ”のほぼ2件に1件がこの範囲内での犯行だったということになる。

 私には意外と言うよりちょっと信じがたくて、いわゆる“身内の犯行”はせいぜい30%前後だろうと思っていたのだが、調べてみるとその30%という数字は昭和30年頃の割合だったことがわかった。私の感覚は半世紀も遅れていたということだ。

 つまりは、自首や出頭を含め、殺人事件の容疑者が挙げられた時点で、これも業界用語でいう“ホシ”は“ガイ者”の家族なり一族の1人だったという確率が50%に近いということだ。大雑把に言ってしまえば、殺人事件の2件に1件が、親が子を殺すか、子が親を殺すか、もしくは血を分けた兄弟がそのどちらかを殺しているということになる。そういう時代なのだろうか。

 その一方で、何かしらのアンケートをとると、いちばん大切なものは“家族”と答えるケースが年々上昇しているのだという。格差社会という言葉が登場して久しいが、私には貧富の格差よりも、この“気持ちの格差”のほうが問題なのではないかと思ってしまうほどだ。

 多くの人が家族を大切に思う気持ちを私は否定しない。否定することなどできない。

 だが、この現実だ。家族を大切に思う人たちが多くいる一方で、親を殺す子がいて、子を殺す親がいる現実。これが気持ちの格差だ。こんなにも家族を思う気持ちに格差があるのである。この歪みを私のようなぼんくらはどう受け止めればいいのか。

 家族は、その人の生活の基盤であり拠点だ。拠り所と言ったっていいくらい大切な生活の単位なのである。

 ときおり、その基盤を壊して自由になりたかったなどとほざくバカ野郎がいる。
 いい歳をして、親に叱られたからカッとなって殺したなどと開き直る大バカ野郎がいる。

 家族の崩壊は自我の崩壊ではないか。親を殺した者、子を殺した者は、そのとき自分自身の存在ばかりでなく、この世に生を受けた理由をも葬っているのだ。

「あの頃は理解しあうことができず、しかし愛していた者たちは、妻をふくめてみな世を去った。残った私は、いまは心で彼らに語りかけている。この歳になるともう釣りもおぼつかなくなり、友だちには止められるが、私は一人で川辺に立ち、流れに糸を投げ入れる。谷間に黄昏が忍び寄るとすべては消え、そこには私の魂と思い出だけが残る」

 これから紹介する映画の主人公が、エンディングで独白する台詞だ。

 誰もがいずれは老い、その年齢にいたるまでに大切な人に去られたり、愛する人と永遠の別れを経験する。私もいずれは老いる。もちろん、あなたもだ。そのとき、私やあなたには何が残っているか――、何を励みに、何を求めて生きていたのかを、人は老いて初めて思い知ることになるのだ。

 私たちがこの世に生を受けたのにはそれなりの理由があるはずであり、この世に生を受けたからには何かをしなければならないはずだと私は思っている。それが生きるということで、人生はその答えを探る旅だ。

 だから冒険もする。多くの人と交わって社会を知り、世の中を知り、苦痛や困難や安らぎを知る。限りある命だから人は精一杯生きるのだ。必死に生きることをしない人間には、おそらく悔いだけが残る。

 というわけで、今週はロバート・レッドフォード監督作品の「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画を。

 直訳すれば、川は“そこ”を流れている、だ。これは、それがどこかを探す映画だ。

 決して重いテーマを扱っているわけではなく、むしろ美しい映像に心が洗われるような思いに浸れる名作だ。とりわけ、私のように田舎から出てきて都会に暮らす人には、故郷の懐かしさや家族の温かみといった安らぎをもたらしてくれる映画でもある。大好きなのだ、この映画。

*   *   *

 物語は、原作者ノーマン・マクリーンの視点で描かれている。

 だから、すべては彼の原体験であり、心象風景の映像化だ。舞台はモンタナ州ミズーラという山に囲まれた小さな町。製作したロバート・レッドフォードという俳優はカリフォルニアの生まれだが、モンタナがかなりお気に入りらしい。

 州のニックネームは“大きな空の国”と言う。

 カナダと接した州の西部をアメリカンロッキーがそびえ、東側は広い平原。イエローストーン国立公園でも知られている。工業的には立ち後れているが、農業と鉱業、林業が盛んだ。モンタナとは、ラテン語で“山が多い”という意味になるのだそうだ。

 山間の町を写したセピア色の写真で物語は始まる。

 このときのノーマンは、10歳になろうかという少年だ。年代は1910年前後。ニッカボッカのような吊りズボンとハンチング帽をかぶったノーマンと弟のポールはとても愛らしい。モンタナでの回想は、すべて彼の独白で語られている。

 父親は長老派教会の牧師で、フライフィッシングの名人だ。

 名人と言うよりは大の釣り好きで、だから日曜日のミサの説教にもよく釣りの話が引き合いに出される。たとえば、イエスの使徒はいずれも釣りが得意で、中でもヨハネはフライフィッシングの達人だった、といった感じだ。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

シネマde青春

趣味は楽しむから趣味なのだ。映画もまた、楽しんで観るから娯楽なのだ。たくさん観ているからといって偉いわけじゃない。要は、楽しめたかだ。それがいちばん正しい映画の見方だと私は思っている。・・・それでも、映画を観るたびに考えさせられることや勝手に学んだつもりになることは多々あって、何年経っても忘れられない場面もあれば、解釈の仕方ひとつで何気ない台詞に影響を受けたり、その台詞を借りて自分を励ましたり勇気づけたこともある。だから映画は面白いのかもしれない。そうした場面や台詞を拾い上げながら、私なりに感じたことを徒然に、道草を食いながら綴っていこうと思う。

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