「シネマde青春」

「あなたが友だちだったら貸してやってもいいんだけど……」
〜第19回:バグダッド・カフェ

「あら、お友だちになるのは簡単よ」

バックナンバー

2009年2月6日(金)

1/14ページ

印刷ページ

 その店の名前はバグダッドカフェ。バグダッドにあるからバグダッドカフェだ。

 バグダッドは、アリゾナ州にある地名。ラスベガスとフェニックスのちょうど中央に位置する砂漠地帯だ。だから周囲には何にもない。一直線に走るハイウェイ沿いにガソリンスタンドと簡易モーテル、そしてバグダッドカフェがぽつんとあるだけなのだ。

 その3つを経営しているのは黒人家族。

 夫の名前はサル。ちょっと気が弱くてだらしない。女房はブレンダ。夫を尻に敷き、些細なことですぐ怒鳴るほど気が強い。演じているのは、後にアメリカの大人気ドラマ「ER」に出演することになるCCH・パウンダー。この映画が彼女の初主演作品だ。

 娘の名前はフィリス。おそらくは中学生。が、たいへん早熟で、店に来た長距離トラックに乗せてもらってドライブに出かけたかと思えば、帰りは違う車で送ってもらうような活発なお嬢ちゃん。いつもヘッドフォンでロックを聴いている。

 もう1人はどうやらブレンダの弟らしいのだが、名前はサロモ。ろくに店の手伝いもせず、いつもいつもピアノばかり弾いている。乳飲み子がいる。が、奥さんはいない。逃げられたらしい。27歳にもなってあんたは、とブレンダに怒られている。

 カフェには従業員が1人いて、近くに住むインディアンのカヘンガが店を手伝っている。この州には、インディアン保護区と呼ばれる地域があるのだ。モーテルに長期滞在中のデビーは美人のタトゥー彫り師。給油や休憩で訪れるトラック野郎にタトゥーを彫っている。

 常連は、店の裏に停めたぼろぼろのキャンピングカーで寝起きするルディ・コックス。もう50歳を超えていて、かつてはハリウッドの舞台美術をやっていた絵描きだが、ここではぶらぶらしているカウボーイファッションの伊達男だ。

 ブレンダは今日も怒鳴り散らしている。

 店のコーヒーマシンが故障し、夫のサルがシティーまで買いに出かけたはいいが、何を思ったか肝心のものを買い忘れて戻ってきたからである。2人の夫婦喧嘩は日常茶飯事だ。だが、ブレンダの怒気に圧倒されて、サルはほとんど言い返すことができない。そういう夫婦なのである。

「うるさいな、くだらんことをがみがみと」
「悪かったね。よく言うよ、このろくでなしが。あたしに働かせて何さ」
「お前ががみがみ言うからだろ」
「何もしないから言ってるんじゃないか」
「ガソリンスタンドは俺がやってる」
「あぁ、そうだったそうだった。1日にトラックが2台しか給油に来ないスタンドはあんたの仕事だった」
「うるさい女房だぜ」
「とんだ亭主だよ」

 ブレンダは、ガソリンスタンドで拾い集めた空き缶をサルに投げつける。

「そんなに言うんだったら、俺は出て行く」
「とっとと出てけ。戻ってくるんじゃないよ」
「あぁ、戻るものか。達者でな」
「死んじまえ。あたしが悲しむと思ったら大間違いだよ」

 ブレンダはとても気が強く、そして、たいへん口が悪いのである。

 だが、サルが本当に車で出て行くと、ブレンダは空き缶を拾い集める手を止め、しゃがみ込んで泣き出してしまうのだ。ぼろぼろと涙を流してむせび泣く。

 ブレンダには、乳飲み子を抱えながら店の手伝いもせず、ピアノの練習に余念のない弟と男漁りに余念のない娘、そして頼りない夫がいる。店を手伝う従業員もいる。だが、ガソリンスタンドと簡易モーテルとカフェはブレンダ1人で切り盛りしているにも等しい。

 利益などほとんどなく、生きていくのに精一杯だ。

 なのに、家族はそれぞれが勝手に好きなことをやって、好きなほうを向いて、気持ちはばらばらだ。負担だけがブレンダの肩にのしかかって、しかし、彼女にもどうすればいいのかがわからない。だからいつも怒鳴り散らしている。腹立ち紛れに夫が出て行ったように、彼女だってできるならこんな境遇から逃げ出したいのだ。

 モーテルの玄関先に置いたソファーに座り、ブレンダは泣いている。

 娘のフィリスはヘッドフォンでロックを聴いている。弟のサロモはピアノの稽古に夢中だ。誰も彼女を慰めに来ようともしない。そこに、大汗をかきながらキャスターのついたトランクをごろごろと引きずりながら1人の旅行客が現れる。

 ジャスミン・ムンシュテットナー。ドイツからの旅行客だ。

 車でラスベガスへ向かう途中、彼女も夫と口論になり、車を降りて重い荷物をごろごろと引きずりながら砂漠のハイウェイを歩き、ようやく一息入れられる場所にたどり着いたという設定だ。登場したときは、一瞬カルチャークラブのボーイ・ジョージかと思ってしまうが、マリアンネ・ゼーゲブレヒトという名のれっきとした女優さん。

 ジャスミンは、このモーテルに泊まりたいと申し出る。

「本当に? 本当に泊まりたいの? 何だったらタクシーだって呼べるのよ」

 このモーテルには、トラック野郎を相手に部屋でタトゥーの店を開いている長期滞在中のデビーがいるが、宿泊を希望する客が来たことをブレンダが驚くようなところらしい。何しろ、受付の机の上にはうっすらと土埃がたまり、宿泊客名簿に記入するジャスミンがぎょっとするような客の来ないモーテルだ。

 だから部屋もひどい。一応掃除はしてあるしベッドメイキングもしてあるが、そのほかはほとんどメンテナンスもされてなくて、天井板は破れたままで、コンセントの差し込み口は剥き出し状態。室内を見渡してジャスミンはため息をつくが、トランクを開けてまたため息。口論の果てに車を飛び降りたはいいが、うっかり夫のトランクを持ってきてしまったからだ。

 ジャスミンは夫の衣類を工夫して着こなすのだが、翌日、部屋の掃除に来たブレンダは壁やクローゼットに男物の洋服しかかけられていないことや、洗面所に男性用のシェービングセットが置いてあることからこの一見客を不審がり、保安官に通報するほどだ。ジャスミンが“連泊”を希望したことがブレンダには何よりも不審だったらしい。だから宿泊客に向かって、まだ泊まる気なの、などと平気で口走ってしまう。

ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。


関連記事

Keyword(クリックするとそのキーワードで記事検索をします)

Feedback

  • コメントする
  • 皆様の評価を見る
内容は…
この記事は…
コメント209 件(コメントを読む)
トラックバック
著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

シネマde青春

趣味は楽しむから趣味なのだ。映画もまた、楽しんで観るから娯楽なのだ。たくさん観ているからといって偉いわけじゃない。要は、楽しめたかだ。それがいちばん正しい映画の見方だと私は思っている。・・・それでも、映画を観るたびに考えさせられることや勝手に学んだつもりになることは多々あって、何年経っても忘れられない場面もあれば、解釈の仕方ひとつで何気ない台詞に影響を受けたり、その台詞を借りて自分を励ましたり勇気づけたこともある。だから映画は面白いのかもしれない。そうした場面や台詞を拾い上げながら、私なりに感じたことを徒然に、道草を食いながら綴っていこうと思う。

⇒ 記事一覧

記事を探す

読みましたか〜読者注目の記事

  • いま、歩き出す未来への道 復興ニッポン