東京・六本木にある国立新美術館にて「加山又造展」が、3月2日まで開催されています(高松市美術館では、4月17日〜5月31日開催予定)。本展では、現代日本画を代表する加山又造の絵画、陶器、着物、デザインなど100点を超す作品が展示され、加山芸術の軌跡を辿りながら、その全容を展望するまたとない回顧展となっています。
日本画滅亡論と西洋への接近、その中で、日本画の本質を問う
加山又造は、昭和2(1927)年に、祖父は絵師、父は衣装図案家という京都西陣の芸術家一家に生れました。昭和24(1949)年、東京美術学校日本画科を卒業。その後は、日本画壇の巨人の1人である山本丘人に師事し、新制作協会(現・創画会)を中心に活躍しました。
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加山が東京美術学校を卒業した頃は、終戦の影響から、「日本画滅亡論」が声高に唱えられる時代でした。日本的なもの、古(いにしえ)からの伝統を捨て、新しい西洋的なものに価値を見出そうとする動きが芸術分野でも起こっていたのです。
加山もまた、その動きに押され、1度は近代日本画の流れから外に出ることになります。しかし、その頃の多くの日本画家と加山が違っていた点は、西洋に啓発されながらも、日本画の本質とは何かを模索し、日本画を基盤とした表現を加山自身の作品として、現代に問うた点でしょう。
戦後に出発した“新しい日本画の旗手”、これが加山又造の本質です。
その後、加山は昭和33(1958)年に米国ニューヨークの「グッケンハイム美術賞展」で受賞。昭和48(1973)年には、日本芸術大賞を授与されています。
昭和41(1966)年からは、多摩美術大学教授を勤め、その後は東京芸術大学に移り、次世代の日本画を担う後進たちの指導に力を尽くしました。
日本画の古典的様式美を追求し、一方では、最先端のデザインも
加山は日本の古典につながる装飾的な様式美による作品、線描の美しさを徹底して追求した裸婦、あるいは北宋院体の山水画に学んだ水墨作品など、常に日本画壇に新しい息吹を吹き込み続けました。
昭和59(1984)年、加山は、身延山久遠寺本堂に天井画「墨龍」と、水鳴桜の襖絵16面を描きました。また、平成9(1997)年には、京都・天龍寺に天井画「雲龍」を見事に完成させています。
そのほかにも陶器や着物への絵付け、ジュエリーのデザイン、JALボーイング747型機の機内装飾やBMWの車にペイントを施したアートカーなど創作の範囲は多岐にわたっています。
平成9年、文化功労者として顕彰され、天井画「雲龍」を完成させた平成15(2003)年には文化勲章を受章しました。そして平成16(2004)年、多くの人々に惜しまれつつ、日本画に革新的な画業を求め続けた画家はその人生の幕を閉じたのでした。
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