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20. 独断で引いた一本の線――危険でないレポートには意味がない。

黒井千次スペシャル(4)『時間』その1

  • 千野 帽子

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2009年3月4日(水)

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時間

時間』黒井千次著、講談社文芸文庫、1,121円(税込)

 日直のボウシータです。

 『騎士グーダス』につづいて、黒井千次の富士重工時代の短篇をもうひとつ読んでみよう。『騎士グーダス』とほぼ同時(その前月)に発表された『時間』(1969/講談社文芸文庫『時間』所収)だ。

 この作品には、「組織で働くということ」をめぐるいくつかの対比を見ることができる。

 主人公が熱心に働けば働くほど他の部署が困る、という「個人vs.組織」の問題。正社員として高度経済成長に参画できた主人公と、ほんのちょっとした運命の匙加減で被告として戦後を生きてきた同窓生の対比。正社員の主人公と専業主婦の妻の立場。そして同窓会を「自分の過去に向き合う場所」と考える主人公と、コネを作るための名刺交換の場として利用する若いサラリーマンの違い。

 たった80頁の短篇に、組織で働くことに付随するさまざまなコントラストを発見することができる。

*   *   *

 この短篇の背景にあるのは、1952年の「血のメーデー」事件である。

 メーデー──5月1日には、労働者が権利要求を訴え、連帯を呼びかけるデモをおこなう。この時代のメーデーはまた、労働運動であると同時に学生運動でもあった。

 労働運動といえば、近年はワーキングプアのサウンドデモで久しぶりにクローズアップされている。また学生運動といえば、1960年・70年に向けての安保闘争を思い出す。しかし1950年代初頭の労働運動には、その後の運動とは違う独特の意味があった。

 労働運動にせよ、それを当時リードしていた左翼政党の活動にせよ、第2次世界大戦前・戦中の弾圧のあと、戦後にいったんは合法化されてはいた。

 しかし1949年に中華人民共和国が成立して以来、ソ連の原子爆弾実験、50年の朝鮮戦争勃発と、東アジアの激動を受けて事態が変わる。50年以降、米国ではいわゆる「マッカーシズム」による「赤狩り」が始まっていた。東アジアの赤化を警戒するGHQは、占領下日本での左翼活動を弾圧しはじめた。このレッドパージで、公職追放や解雇の憂き目にあったケースは数知れないと言われる。

 そういうわけでこの時代、左翼的な学生運動にタッチするのはたいへん危険なことであったが、その危険なことに身を投じる学生がまだ多かった。大学進学率が低い当時、学生はいまとは比較にならぬエリートだったが、その数少ない学生のなかで、左翼的な活動がさかんだったのである。

 たとえば東大は当時もいまもキャリア官僚養成機関としての法学部を擁しているが、その東大に左翼的思想の学生がけっこういた。と考えれば、日本で社会主義革命が起こったら……という危惧が、当時の人々にとってはそれほど突飛なシミュレーションではなかったわけである。

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効で連合軍の占領が終わり、日本は国としての主権を認められたが、皇居前広場のメーデー会場としての使用禁止は解けていなかった。

 条約発効の3日後である5月1日、明治公園に労働者と学生15万人が集結、皇居前広場で約10,000人のデモ隊と警官隊が衝突し、後者が発砲する事態に発展した。この衝突で死者は2名、重軽傷者は740名とも、また一説にはその倍とも言われる。高校生を含む1,232人が検挙され、261人が起訴された。

 「血のメーデー」事件からの17年間に、「60年安保闘争」があり、「70年安保闘争」があった。『時間』の発表は、「70年安保闘争」の曲がり角である東大安田講堂事件とほぼ同時。しかし「安保以前」の労働運動だった「血のメーデー」は終わっていなかった。裁判の第一審が進行中だったからである。

*   *   *

 『時間』の主人公〈彼〉は、妻と幼い子どものいる30代の会社員。経済学部・寺島ゼミの同窓会にいけば、企業や官公庁でみなそれぞれに出世している。〈彼〉を含めて、寺島ゼミの卒業生たちは高度経済成長の日本を支える現場に立っているのだ。

 学生時代の熱気がよみがえってきたかのような会場を、ひとりの男が出て行くのを〈彼〉は見る。古びた浅黄色のレインコートのその後姿が、なぜか〈彼〉の視界に鋭く焼きついて離れない。

 勤務先の一年先輩・下木内は、営業マンの必須教養とされたゴルフを始める決意を固めている。いっぽう〈彼〉は、路上でふたたび、あのコートの男を見てしまい、なにか落ち着かない。職場で、あるいは家庭で、〈彼〉はあのコートの男のことを思い出し、内省している。

 〈今ここで新しい何かを始めることは不可能なのだろうか──〉と。

 数週間のあいだ、彼は膨大な情報量の報告書に取り組み、それはほとんど完成していた。じつは偶然から新しい仮説が〈彼〉の頭に宿り、報告書の調査・分析の方向性がずいぶんとオリジナルなものとなっていたのである。

 そのことを〈彼〉は前もって告げぬまま、レポートを横地課長に提出したが、課長は問題の箇所を即座に発見し、このグラフに<彼>が記した一本の線を消そうとする。このグラフがこのまま部外に出たばあい、営業部の反応は芳しくないだろうと言うのだ。〈彼〉が独断で引いたその一本の線は、〈激しい販売競争の中で闘っている営業部門にとっては、あまりに客観的であり、批判的であり、悲観的であり、腹に据えかねるものであるに違いない〉。

 危険でないレポートには意味がないと主張する〈彼〉に、課長は営業部とのあいだに緊張関係を抱えている現状を〈彼〉に思い出させる。いっぽう原島部長はレポートを支持し、〈彼〉を課長資格試験に指名する旨の書類を手渡した。順番から言えば早いほうらしい。スポーツに臨むような緊張感が〈彼〉のなかに満ちる──

 しかしその充実した気分も、廊下でコートらしいものを着た長身の男を見た瞬間、空虚感に襲われて萎えてしまうのだった。

 ここに読み取れるものはなにか。

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