「空気」を読むことは、場の「空気」を醸成するメンバーへの思いやりとして発揮されもするが、横並びからの逸脱を許さないバッシングとしても発動される。その潮目は 「空気」次第で、はっきりとはしない。
目には見えない「空気」に対処するには、どうすればいいのか。引き続き、萱野稔人さんに聞いた。
−−前編では、他人からの承認を得ようとするために「空気」を読むことが、日本人のコミュニケーションの基礎になっているとお話しいただきました。また、現代のいじめは、「空気」を読まなくてはならないという圧力に耐えかねて起きているとの指摘もいただきました。日本人は現状のコミュニケーションに相当ストレスを感じていると言えそうですね。
萱野:「空気」を読むことが当然視されている状況のなかで、他人に気を遣いすぎたり、他人の期待に過剰に応えようとして、多くの人が疲弊しています。でも、そうしないと自分の存在意義やアイデンティティを確保できない。人から認められたり受け入れられたりすることが日本人の実存にとって大きなウェイトを占めているんですね。
萱野稔人(かやの・としひと) 1970年愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。現在、津田塾大学国際関係学科准教授。著書に『国家とはなにか』(以文社)、『権力の読みかた』(青土社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『「生きづらさ」について』(共著、光文社新書)など。
しかし、そうやって他人からの承認に依存しすぎて生きていると、「自分が思ったように周りから認めてもらえない」という事態になったとき、相当の不全感やストレスを抱えてしまうことになります。それがねたみやひがみを蔓延させる。承認不足にもろい人間関係だといえるでしょう。
ねたみから作られる“萎縮社会”
−−競争や不安を煽られ、ねたみやひがみを感じやすい社会になっていても、人びとはそうした構造を生んでいる社会に対して怒りを表現していない気もします。なぜでしょうか?
萱野:人びとの怒りが発露されていないわけではありません。向かう先が違うのです。むしろ人びとの怒りは、「空気」を読めという圧力にあまりとらわれずにうまくやっていたり、自分を貫いていたりする人に向けられている。そういう人が何かミスをしたり、周りに迷惑をかけたりすると、人びとのバッシングがすごいですよね。いわば、人びとの怒りそのものが「空気」の構造を強化する方向にいっているのです。
「空気」の圧力を超えて誰かが特別に抜け駆けすることを許さない雰囲気がこの社会にはあります。だから当然、その裏返しとして、自分だけが割りを食うのも耐えられない。「なんで俺だけが」という逆の平等主義です。
“委縮社会”と言えばいいのでしょうか。フランスに留学しているとき、よくこんな光景を目にしました。ある日本人が、現地に溶け込もうとがんばってフランス人たちと話そうとしている別の日本人のことを、「あいつ、文法もまともにできないくせに」と陰口をする、という光景です。
本当は陰口を言っている日本人も、同じようにフランス人たちと話したいんです。でも、うまく話せなくて恥をかくことが怖いから、なかなか話せない。つまり周りの「空気」が気になって仕方ないのですが、それが逆に「空気」を気にせず話そうとしている人の足を引っぱる方向に向かってしまうのです。ねたみが人を萎縮させる圧力になってしまうんですね。
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