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東京駅に「お掃除の魔女たち」を見た!

  • 赤瀬川 原平,山下 裕二

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2014年10月27日(月)

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 2014年10月26日、作家であり芸術家の赤瀬川原平さんが亡くなりました。

 1960年代からアバンギャルドな芸術活動や「偽千円札偽造事件」で世間を騒がせ、無用になった人工物を天然のアートと見なす「超芸術トマソン」や、現代の散歩ブーム、路上写真ブームの始祖ともいえる「路上観察」といったムーブメントを起こし、作家としては『父が消えた』で芥川賞を受賞し、人間の老いをあえて肯定的にとらえ直す「老人力」で流行語大賞をとり、数多くの作家や芸術家や漫画家の「先生」として、八面六臂、縦横無尽の活躍をした、希有の存在でした。

 日経BP社では、縄文土器から現代漫画までを「アート」として面白がる「日本美術応援団」を明治学院大学の山下裕二教授と結成、21世紀の美術ブームのきっかけをつくりました。

 日経ビジネスオンラインでは、赤瀬川さんと山下さんの「日本美術応援団」が、東京の山手線の駅を「アートする」企画、「東京、オトナの修学旅行」を連載、東京駅、上野駅、渋谷駅、新宿駅、池袋駅、品川駅を「修学旅行」いたしました。

 赤瀬川さんを偲び、改めて多くの方々に読んでいただきたく思います。

(編集担当、柳瀬博一)

 東京はその昔憧れの的だった。
 高層ビルが立ち並ぶ未来都市、経済や商業の中心地、もちろん、国会がある都で、芸術や文化が集まる街だ……。

動画へのリンク
画像をクリックすると動画をご覧いただけます。(WMV形式)

 それが今は、日本中をあっという間に移動できるようになり、テレビやインターネットで何でもチェックできてしまう、となると憧れの首都ではもうなくなったのか。
 だが、東京タワーも東京駅も、お台場や東京ミッドタウンにしても、どれもこれも記号的に知っているだけではないのか??

 ここは、きちんと現物に触りながら、東京という都市をもう一度見物してみよう!
 というので歩き出したのは、日本全国津々浦々、日本美術を応援しながら旅して回った赤瀬川原平氏と山下裕二氏。
 「やっぱり面白いのは東京だ! よくよく見れば驚異の連続。オトナだけが楽しめる、いや子供だってオトナに先回りして面白がれるのが観光地だ」とカメラ片手に宣言。
 「観光地としての東京」を応援団が訪ねる、オトナの修学旅行が始まった。

赤瀬川原平氏

赤瀬川原平
(あかせがわ・げんぺい)

 1937年生まれ。前衛芸術家にして芥川賞作家。路上観察学会長老。著書に『もったいない話です』他。

山下裕二氏

山下裕二
(やました・ゆうじ)

 1958年生まれ。明治学院大学教授。専門は室町時代の水墨画だが、広く日本美術全般にエールを送る。著書に『岡本太郎宣言』『日本美術の二〇世紀』他。



二人の共著に『日本美術応援団』 『京都、オトナの修学旅行』 『実業美術館』他。

日本美術応援団
日本美術応援団』 
ちくま文庫、950円(税抜き)
京都、オトナの修学旅行
京都、オトナの修学旅行』 
ちくま文庫、720円(税抜き)


――東京には新幹線でやってくる、修学旅行の玄関口でもありますね。

山下 僕は呉市で生まれて、小学校の時に広島市内に転校して、高校3年まで一度も東京に来たことはなかったんです。

 僕にとっての東京は、まず東京駅が始まりです。当時まだ飛行機はとても高かったですからね。上京するとなれば当然、新幹線。僕が、初めて東京駅に降り立ったのは高校3年生の夏。大学受験の下見を兼ねて、東京まで模擬試験を受けに来たんですね。

赤瀬川 広島時代一番遠くまで行ったのはどこですか。

山下 70年万博で大阪に行っただけですね。それが、都会を見た唯一の体験でした。赤瀬川さんは万博は当然、行かなかったでしょう? 思想的に(笑)。

赤瀬川 ご招待があればやぶさかではなかったでしょうが(笑)。あまり興味はなかったなぁ。
 中学の修学旅行で都会へ行ったりしなかったの?

山下 中高一貫校だったので中学校では修学旅行がなかったんです。高校の修学旅行は九州でしたから、都会ではない。 僕が上京したのは1976年。降り立ったのはまさにこの新幹線ホームです。

赤瀬川 当時の東京駅って覚えてます?

山下 東京駅は当時とあまり変わってないんじゃないのかな。新幹線が、今より2時間近く余分にかかってたとは思いますが。東京からの帰省はいつも新幹線だったし、今は仕事柄京都に行くことが多いんで、僕はもう新幹線に千回以上乗ってると思います。

 そのうちの何十回は赤瀬川さんとですね。

赤瀬川 あ、そうですね。『京都オトナの修学旅行』で。

――敷居が高いものでしたか? そのとき東京は。

山下 敷居が高いっていうかドキドキしてましたね。何でもいいから東京に行きたいっていう気持ちが強かった。

赤瀬川 今でもそうなんじゃないかな。僕らのときはもちろんそうだったし。

山下 僕と赤瀬川さんは約20年違いますからね、ちょっと感覚は違うかもしれないけど。

 僕は9歳上の兄が東京の大学に行ってたんです。兄が帰省するとATG(※)のパンフレットとか、新潮社の箱入りの純文学書き下ろしのシリーズとかを持って帰ってきて、東京の匂いを振りまいてた。60年代の終りくらいです。

赤瀬川 そういうのが輝いていた時期がありましたね。情報以前の現物の時代ですね。

山下 三島由紀夫の『豊饒の海』とかを初版で見て……。そういうの見ちゃうと早く東京に出なくちゃと思いましたね。赤瀬川さんが初めて上京したときはどんな感じでしたか。

赤瀬川 僕はムサビ(武蔵野美術大)に入るために、試験を受けに来たのが初めてでしたね。

 うちは両親が東京出身だったから、なんだろう、いずれは東京に行くっていう気持ちがなんとなくありましたね。

 高校2年生までは芸大へ行こうと思っていたんだけれど、どうも芸大は学科が難しいらしいって聞いて。じゃあ、ムサビだな、と。ムサビはバンカラっぽいっていうのがあったからね。アバンギャルドとはいわないけど(笑)。

 1937年生まれだから18歳だとすると‘55年か。昭和30年ですね。その頃は名古屋から鈍行で8時間くらいかかったんじゃないかな。雪野君という大分の中学生時代の同級生と東京駅のホーム待ち合わせていたんですよ。電車を降りて歩くとコツンコツンと靴音がしてね、革靴を久しぶりに履いてたんだな。あ、東京駅だなぁと、何だかヒヤリとして歩いた時のことを今でもすっごく覚えてるんですよ。

山下 僕の場合は、新幹線で品川の辺りに差し掛かると結構高いビルが林立してるのが見えるでしょう。そんなの今まで見たことないから、車窓から見たビルの林立風景を見て武者震いするような感覚だったのをよく覚えてます。

赤瀬川 やっぱり当時は、東京は憧れの都会でしたよね。

山下 そうですね。他の街とは全然違う。大都会でしたよ。

 そして、その象徴はやっぱり東京駅。

――東京といえば東京駅、そして新幹線ですね

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