「シネマde青春」

「おいらを独りにしないよな。おいら、悪いことをしちまったんだ」
〜第25回:二十日鼠と人間

「いいんだ、もうどうでもいい」

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2009年4月17日(金)

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 ハツカネズミと人間の このうえもなき企ても
 やがて後には狂いゆき あとに残るは ただ単に 悲しみ そして苦しみで
 約束のよろこび 消え果てぬ――

 これは、スコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ハツカネズミに」の第七節だ。

 この詩に触発されて、当初考えていた小説のタイトルを変更したのがジョン・スタインベックである。彼が新しくつけたタイトルは『OF MICE AND MEN』というもの。邦題では『二十日鼠と人間』と訳される。初版が刊行されたのは1937年のことだ。

 スタインベックと言えば『怒りの葡萄』や『エデンの東』を挙げる方も多いだろうが、私はこの『二十日鼠と人間』という作品が好きなのだ。短編集はもっと好き。

 あちこちの舞台でも上演されたこの小説が映画化されたのは1992年になる。製作、監督、主演を演じているのはゲイリー・シニーズ。「フォレスト・ガンプ 一期一会」ではベトナム戦争帰りの帰還兵を演じ、「アポロ13」では直前にクルーを外され、地上から同機の帰還のバックアップをする宇宙飛行士役を演じた本格派だ。

 そして、もうひとりの重要な登場人物を演じているのがジョン・マルコヴィッチ。ウディ・アレンやレオナルド・ディカプリオといった大物に出演、共演を熱望される超本格俳優でもある。主役を演じる2人はプライベートでも親友の間柄で、1976年にはステッペンウルフ・シアター・カンパニーという劇団を立ち上げてもいる。

 個人的な感想を言わせてもらえば、この2人が撮った「二十日鼠と人間」は、原作をしのいでいる。原作が発表されて半世紀以上が過ぎてから製作されてなお、彼らは問いかけているように思えてならないのだ。人は何故、こんなにも切なく、つらい絶望を受け入れなければならないのだろうと。

 そこには、涙を流すことさえ許されない悲しみがあるような気がする。

*   *   *

 赤いワンピース姿の女性が牧草地を走っている。ワンピースは、腹部が破れている。
 彼女は、怯えながら逃げているのだ。

 そしてもう一組、女性とは別方向に逃げる二人連れがある。それがジョージ・ミルトンとレニー・スモールだ。彼らは、手に猟銃を持った馬上の男たちに追われているのだ。放たれた番犬が2人を追う。

 彼らは用水路に飛び込み、生い茂った雑草に隠れて追っ手をやりすごす。そして夜まで身を潜め、通りがかった貨物列車に飛び乗るのである。

「なぁジョージ、どこへ行くんだ?」
「遠くへさ」

 彼らは町に着き、職業紹介所を訪れる。

「ジョージ、どこへ行くんだ?」
「牧場に働きにな」

 彼らはバスに乗り、ソールダッドという町に向かう。その先に、彼らを雇い入れる牧場があるのだ。バスの運転手が歩いてすぐだと言うので、彼らは歩き始める。

「なぁジョージ、どこへ行くんだ?」
「もう忘れたのか」
「覚えようとしたんだけど、忘れちまったんだ」
「何を教えてもお前はすぐに忘れちまう」
「でも、ウサギのことは覚えているよ」
「お前が覚えているのはそれだけだろう」

 いいか、今度は忘れるなよ――、と雑木林を歩きながら話し始めるのが、ゲイリー・シニーズ演じるジョージ・ミルトン。そして、くどいほどに繰り返し同じことを訊いているのがジョン・マルコヴィッチ演じるレニー・スモールだ。2人とももう30歳に手が届きそうな年齢だが、レニーには子供ほどの知能しかないのだ。

「俺たちは、さっき労働カードをもらった」
「思い出したよ。カードをもらった。そいつはここに……、ない。どこにもない、落としたのかな」

 ポケットをまさぐるレニーに、ジョージは苦笑交じりに言うのだ。お前のカードも俺が持ってるよと。

「あぁよかった。失くしたかと思った」
「レニー。いまポケットから何を出した? 見せてみろ。出すんだ、後ろに隠したものだ」
「おいらのネズミだよ……、でも殺しちゃいない。死んでいるのを見つけたんだ」
「よこすんだ」
「嫌だよ、これはおいらのもんだ」
「ダメだ。死んだネズミなんか持っていてどうする」
「歩きながら撫でてやるんだ」

 ジョージは有無を言わさずにネズミの死骸を奪い取ると、それを雑木林のほうに投げ捨てる。すると、レニーは雑木林に走り寄り、投げ捨てられたネズミの死骸の前にひざまずいて号泣するのだ。知能の発達は著しく遅れているが、そのぶんレニーの心根は天使のように優しいのである。だから、彼には世の中の穢れというものが見えないのだ。

「いい年をして泣くなよ。意地悪をしたわけじゃないんだ。ネズミの死骸はダメだ、生きていて、きれいなやつならいいんだよ」
「他のネズミはどこで手に入れたらいいんだ? いつもネズミをくれた“レディー”もいないし」
「レディー……? お前、彼女が誰だったかも忘れちまったのか? お前の叔母さんのクララのことも。わかったよ、レニー。じゃあこうしよう。そのうち子犬をやる。ネズミよりいいだろう、撫でても死なないだろうしな」

 ジョージは、レニーがうっかりネズミを握りつぶしていたことを見抜いている。原作では説明されているが、レニーは、叔母さんからもらったネズミが可愛くて、つい力を込めすぎて次々と窒息死させてしまうのだ。知能が子供だから、力の加減がわからないのである。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

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趣味は楽しむから趣味なのだ。映画もまた、楽しんで観るから娯楽なのだ。たくさん観ているからといって偉いわけじゃない。要は、楽しめたかだ。それがいちばん正しい映画の見方だと私は思っている。・・・それでも、映画を観るたびに考えさせられることや勝手に学んだつもりになることは多々あって、何年経っても忘れられない場面もあれば、解釈の仕方ひとつで何気ない台詞に影響を受けたり、その台詞を借りて自分を励ましたり勇気づけたこともある。だから映画は面白いのかもしれない。そうした場面や台詞を拾い上げながら、私なりに感じたことを徒然に、道草を食いながら綴っていこうと思う。

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