日直のボウシータです。4月1日に始まった「4月病文学入門」も最終回となりました。
科学史家・村上陽一郎が『あらためて教養とは
私は純文学だって、〈「面白く」なくても読み通さなければならない〉などという状況はご免である。それに、〈直ちに投げ出しても、それでどうこうはない〉かどうかを、どうやって判定しているのか、結局村上氏の文ではわからない。
前々回から、「コンテンツのサプリメント化」について書いてきたとおり、サプリメント化したコンテンツは、手持ちの「おもしろいのツボ」に応えてくれるが、そのためにはコンテンツが言うままのルールに従って作品を楽しむことが強制される。
いっぽうサプリメント化していないコンテンツは逆に、こちらに新規のツボを開発してくれるが、それを楽しめる人は、コンテンツが言うままのルールで作品を楽しむことを強制されるのが厭だという人だけである。
きわめて単純化した大雑把な話だけれど、純文学はサプリメント化の度合いが低い傾向がある、という話なのだ。
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文学作品を読んで、人生についてなにやら深遠な洞察を得ることができると考えている人が多いのは、困りものだ。あるいは、文学を読むことがなにか人格の陶冶につながると考えている人が、まだいるらしいのもまた、困った話である。
たしかに、文学作品を読んだ結果、人生についてなにやら深遠な洞察を得ることができるケースもあるだろう。人格の陶冶につながることもあるかもしれない。
でもそれはあくまで結果である。
それは文学を読む目的とはならない。そんなものは、文学を読んだことによって生じる副作用みたいなものだ。
それを言うなら、下手に文学なんか読んでしまったがために、勘違いして傍迷惑な人になってしまうケースのほうが、はるかに多いのだ。
だから私は、「文学を読むと、もれなくこんないいことが起こります」というような安請け合いはできません。なんといったって、効き目が遅く、しかもその効き目にひどく個人差のある薬なのだ。
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