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「読者から忘れられる」恐怖に挑み続けた天才~『手塚先生、締め切り過ぎてます!』
福元 一義著(評者:近藤 正高)

集英社新書、700円(税別)

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2009年5月27日(水)

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評者の読了時間2時間52分

手塚先生、締め切り過ぎてます!』 福元 一義著、集英社新書、700円(税別)

 マンガ家の手塚治虫が、締め切り間際の原稿を何本も抱えていても編集者の目を盗んでは仕事場を抜け出す“常習犯”だったことは、たびたび放映されるドキュメンタリー番組などを通じて、いまや一般にもよく知られているのではないだろうか。

 生前の手塚に、編集者あるいはアシスタントたちが頻繁に叫んだであろうセリフをタイトル(物書きだったらこれを目にして身につまされない人はいないはず!)に掲げた本書にも、この手のエピソードが満載だ。

 仕事中のはずなのに、街頭で編集者とばったり出くわし、近くの店に逃げ込む……などというのは序の口で、東京と関西を往復していた初期には、宝塚の実家に帰っていたなんてこともあったとか。

 後年にいたっても、イベントで地方に出かけたあと、帰京するはずが突如として雲隠れしてしまったことがあったという。東京にいる手塚プロダクションのスタッフたちもまったく行方がつかめず、原稿を待たせていた編集者に平謝りするはめに。すべての謎が解けたのはその翌日の夕刊によってだった。

 なんとその紙面には、徳島でマンガ家仲間と一緒に阿波踊りを踊る手塚の写真が載っていたのである。以来、出張やサイン会には必ず、見張り役の担当編集者が同行するようになったそうな。

 本書の著者は、1952年(この年に手塚は上京している)に少年画報社に入社し、月刊誌「少年画報」の編集者となり、手塚の担当についた。以来、手塚が1989年に亡くなるまで、途中ブランクはあるものの、30年近くにわたって内側からその創作活動を支えてきた。そんな人物は、おそらくほかにいないのではないだろうか。

 駆け出しの頃の手塚は、一人ですべての作業をこなしていたが、仕事が増えるにつれ、ある器用な編集者がライン引きやベタ塗り(指定された部分を黒く塗りつぶすこと)を買って出るようになったという。

 しかしこれが案外うまくいかない。そこでもともとグラフィックデザイナー志望で、日大芸術学部中退という経歴を持つ著者にお鉢が回ってくる。「なかなかいけるじゃないか」と認められると、模様を描くなどといったさらに高度な作業も任されるようになった。

筆が速すぎて、締め切りが守れない

 そんな著者の編集者時代、締め切りを目前にして8本の連載がまったくできていないということがあった。だがいざ取りかかると、手塚は2日間ですべての原稿を描きあげてしまったという。

 手塚が常に綱渡りで原稿を入れるような日々を送っていたのは、何も遅筆だったからではない。まったくの逆で、あまりにも原稿を描くのが速いがゆえに、限界ぎりぎりまで仕事の依頼を引き受けてしまっていたからなのだ。

 その後、著者はあらためて手塚の筆の速さを痛感する。それは、アシスタント経験を積むうち自信をつけ、ついに1955年には出版社をやめてマンガ家へ転身してからのこと。古巣「少年画報」の別冊付録として描いた『怪物ガビラ』という作品が大人気を呼び、翌月、7社ぐらいから舞い込んだ原稿依頼をすべて引き受けてしまう。

 手塚の仕事ぶりを身近に見ていて、「自分にもできるだろう」と思い込んでしまったのがそもそもの間違いだった。

〈なんとも無責任な話でお恥ずかしいのですが、結局原稿は間に合わず、この失敗により仕事の依頼もパッタリとなくなってしまいました〉

 それからもしばらくはマンガ家を続けた著者だが、やがて『赤胴鈴之助』などで知られる武内つなよしのプレイングマネージャーを8年ほど務めることになる。手塚の仕事に再度かかわるのは、1965年、「少年画報」で連載が始まった『マグマ大使』の手伝いを請われたときだった。この流れから、1968年の手塚プロダクションの設立時にはスタッフとして入社することになる。

 手塚プロは、アニメスタジオとして設立されすでに巨大な組織となっていた虫プロダクションとは別に、手塚が自分のやりたい仕事に専念するために立ち上げた会社だ。とはいえ、虫プロが倒産したのち1978年には、アニメ制作を行なう部門が新設され、それと前後して刊行の始まった「手塚治虫漫画全集」第1期全300巻の準備もあいまって、とても専念どころではなくなってしまう。

 もちろん雑誌連載も途切れることはなく、とりわけ正月休みを見越して各誌の締め切りが前倒しされる年末には、多分に洩れず仕事量がピークに達した。

 そのなかにあって、1982年の年末にかぎっては例外的に〈光速に等しい進行〉が実現した。驚くべきは、このとき手塚は発熱のため医師から自宅療養を言い渡され、病床での執筆を余儀なくされていた、ということである。

コメント1件コメント/レビュー

手塚治さんは大好きですが、手塚治さんをネタに飯を食っている人は好きになれません。高名な作家、映画監督、俳優、女優、スポーツ選手などと関わりのあった人物が「あの人は、実はこうだった、ああだった」と裏話や思い出話を語ることで本を書くのは、いい加減ヤメてほしいと思います。たとえそれがどんなに意義深い、味わいのあるエピソードだったとしても、それが飯の種になっていると思うと、完全に興ざめしてしまいます。(2009/05/27)

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手塚治さんは大好きですが、手塚治さんをネタに飯を食っている人は好きになれません。高名な作家、映画監督、俳優、女優、スポーツ選手などと関わりのあった人物が「あの人は、実はこうだった、ああだった」と裏話や思い出話を語ることで本を書くのは、いい加減ヤメてほしいと思います。たとえそれがどんなに意義深い、味わいのあるエピソードだったとしても、それが飯の種になっていると思うと、完全に興ざめしてしまいます。(2009/05/27)

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