おもしろい本を読んでいるうちに夜が明けてしまうことがある。逆に、ほんの数分のプレゼンテーションが何時間にも思えてしまうことがある。
楽しいことは夢中になって取り組めるのに、興味の向かないことは退屈で仕方ない。楽しく過ごしたほうが心身にとってプラスになることは多そうだ。
では、我を忘れるほどハマる“没頭”とはどういう状態を指し、どのように人は没頭に導かれていくのか。そんな無我夢中状態の解明を目指した心理学の理論があるという。「フロー理論」だ。
フロー理論は、深い楽しさを人にもたらす没頭状態がいかに訪れるかを、人の主観的な経験に着目して明らかにした心理学のモデル。今回登場いただくのは、フロー理論の研究者、法政大学の浅川希洋志さんだ。人が夢中になる状態は作りだすことができるのだろうか。

浅川希洋志(あさかわ・きよし)
1957年、長野県生まれ。シカゴ大学大学院修了(Ph.D.取得)。現在、法政大学国際文化学部教授。共著に『フロー理論の展開』(世界思想社)、『子どもたちは本当に変わってしまったのか』(学文社)など。
−−楽しいことはあっという間に過ぎてしまったり、無我夢中に没頭していると寝食を忘れたりといったことを経験することがあります。先生が研究している心理学の領域では、それを「フロー状態」と呼んでいます。この言葉の指す意味とはどういうものでしょうか?
浅川:フロー状態とは、「自己の没入感覚をともなう楽しい経験」と定義することができます。スポーツや趣味に打ち込むと、時間が経つのが早いですよね。はっと我に返ったとき、「楽しかったな。もう一度やってみたいな」と思うような感覚が芽生えると思います。
行為と意識が溶けあう感覚
−−とくに浅川先生が、フロー理論において興味をもっている点はどのような部分ですか?
浅川:私は精神的な健康への興味から、フロー状態による“充実感”に関心をもっています。日本人は仕事がうまくいったときや生き甲斐を覚えたときに、「充実している」という言い方をよくします。充実感を英語でいえば、「センス・オブ・フルフィルメント」です。
しかし、欧米のフロー研究では、「センス・オブ・フルフィルメント」という心理状態はほとんど注目されてきませんでした。
私は論文に、“Jujitsu-kan”という日本語の表記を用いています。のめりこんであっという間に時間が経ち、没入から覚めた後、充実感が体を満たす。私たち日本人の精神的な健康をはかる上で、充実感は重要な概念だと思います。
−−「のめりこみ」や「没入」といった表現からも、フロー状態において時間感覚が変容していることがうかがえます。そのほかのフロー状態の特徴としては、どういうことがありますか?
浅川:自分の置かれている状況を「コントロールしている」という感覚が生まれます。「制御している」という感覚ではなく、「どんなことが起こっても、うまく対処できる」という自分の能力に対する確信のようなものです。
あとは、自意識がなくなります。私も授業をしていて、とくに開始早々で学生の反応が悪いときは、自分は「うまくやれているかな」と気になりますが、つい講義に夢中になるとそういう意識が消え、あっという間に時間が経ってしまうことがあります。
それは、“行為と意識の融合感覚”とも言えるでしょう。ツール・ド・フランスなどに参加する一流選手の記事を読んだことがありますが、その選手は自転車と自分がまったく同じひとつのシステムになったような感覚があったと語っていました。あえて操作している感覚ではないということです。
芸術家が、完成した作品に無関心なのはなぜか
−−なるほど。そもそもフローという心理状態が着目されるようになったのは、どういった背景があるのでしょうか?
浅川:フロー理論を提唱したのはハンガリー出身のアメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイでした。私の師に当たります。チクセントミハイが、この領域に興味をもったのは、若い芸術家たちと接する機会があったからだといいます。
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