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「しあわせ」に生きたいなら、プルーストといっしょに考えてみよう

『失われた時を求めて』マルセル・プルースト著

2009年6月23日(火)

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 疲れ果て、肩を落とし、足を引きずりながら家路につく。
 体の中心にある柱のようなものが、脆く、崩れてしまいそうだ。
 「これでおしまいにしよう」
 静かにそう心に決めかけている……そんな日もある。

 そのとき、運が良ければ、ぼくは出会うのだ。
 見過ごしてもおかしくないのに、偶然、なぜか目をとめる。

 すると突然、時の流れが止まる。
 ぼくを取り巻く事物のひとつひとつに細かな光が宿る。
 その美しさに浄化されたように、否定的な感情も思考もすべて消え去ってしまう。

 たとえば、ある11月の昼間。
 一点の白も置かれることなく、空は恐ろしいほどに深い青色だった。
 陽光の明るさに、かえって気持ちは沈み込んで、ぼくは、自分のつま先を見つめながら歩いていた。
 何の合図があったわけでもない。
 ふと、ぼくは顔を上げた。

 すると、黄色いイチョウ葉を舗道にまき散らしながら、秋が、飛行機をダイヤモンド・チップにかえて、天空をふたつに切り分けていた……。

 誰もが目にする、ありきたりの光景にちがいない。
 しかし、そのとき、ぼくは舗道に立ちすくみ、泣き出しそうな思いで、どれほどの時間だったろう、じっと空に引かれていく白線を、それが青に滲み出し、薄れ、跡形もなくなるまで、見つめていたのだった。

 日々、何もかもが悪い方へ向かって崩れ落ちていくとしても、それにもかかわらず、ぼくは世界を肯定できる、この生を肯定できる……こんなふうに「できそこなっている」ぼくにさえ、「生きていることが肯定される瞬間」が訪れるのだ。

*    *    *

 それは、不意にやって来る。日常の中のふとした瞬間に、まるで奇跡のような美しさ、晴れやかさを伴って。

 このかけがえのない時間、体験を「事件」と呼ぼう。

世界は美しい、黙って見つめていよう

 「事件」に出会うと、何もかもが、おそろしいほどにリアルでヴィヴィッドになる。
 あたかも瞳孔が二倍に開き、全身の神経が感度を増すようだ。

 ふだんあれほど自分を悩ませている、自分の生や思考や言葉につきものの「嘘臭さ」は、すっかり消えている。自分が世界に、あるいは時間に、密着していると感じる。
 そして、理由はまったくわからないが、感動とともに「これでよし」と納得している。

「ぼくがこんなふうで、世界はこうであるけれど、それもこれも、みな素晴らしい」

 と。

 突然立ち上がるこの輝かしい世界、ぼくにとって、かけがえのないこの感覚を、どう語ればいいのだろう。

 上に書いた例も、「飛行機雲を見ただけのこと。それがどうした?」と思われるのがオチだ。

 ぼくにとっては、確かに何事かが起こった。大切な、美しい出来事だ。鮮やかで衝撃的な感覚だ。
 それなのに、それを伝えようとする言葉は、唇から離れたとたんに嘘臭くなる。

コメント3件コメント/レビュー

前回のコラムと合わせて読ませて頂き、とても強く共感しました。あなたの文章に出会ったことは、私にとっての「事件」です。身近にいる誰とも分かち合えない、うまく言葉にできない生きていく苦しみ、悲しみがあります。それは、時を重ねるごとに強くなって、いつか押しつぶされそうな気がします。良い文章を読んだときには、少しだけ励まされます。ありがとうございます。(2009/06/23)

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いただいたコメント

前回のコラムと合わせて読ませて頂き、とても強く共感しました。あなたの文章に出会ったことは、私にとっての「事件」です。身近にいる誰とも分かち合えない、うまく言葉にできない生きていく苦しみ、悲しみがあります。それは、時を重ねるごとに強くなって、いつか押しつぶされそうな気がします。良い文章を読んだときには、少しだけ励まされます。ありがとうございます。(2009/06/23)

大作家に失礼かもしれないけれど、私はプルーストのことを「できそこない仲間」と思っています。『失われた時…』は、物語の大半は時が「失われていく」ほうをえんえんと描いて、近所のおじいちゃんみたいに何度も同じ話はするし、いくら途中で死んだからってもうちょっと原稿、まとめとけ! という感じだし…こいつ、けっこう、だめなやつだな。と。でも、これだけのぐだぐだと長々しい布石があったからこそ、最後に主人公が時を「見出した」という「事件」がこれほど胸に迫るのだ。そのことはおぼろに感じてはいたけれど、今回筆者からそのことに根拠を与えてもらった気がして、うれしい。それに、「けっこうダメなやつ」が、神とか既成の哲学によらず、まったく自分の体験のみを通してこのような境地に至ったことは、おなじダメなやつとして、勇気付けられるものがある。今後も、連載を楽しみにしています。(2009/06/23)

>迷子にさえならなければ、一本道を直進する散歩よりも、とまどいながら複雑な路地裏を訪ね歩く散歩のほうがずっと楽しく豊かで「事件」に遭遇する可能性さえ秘めている...言ってみるならば、「事件」のハイパーリンクでしょうか?(2009/06/23)

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