
西川善文氏は、「最後のバンカー」と呼ばれているのだそうだ。
どういう意味だろう。
「ラストエンペラー」は、文字通り「最後の皇帝」だった。帝国自体が滅亡した以上、新しい皇帝が出てくる道理はない。だからこれはわかる。「最後の卒業生」という言い方も理解できる。廃校した学校から卒業生が出るはずはない。当然の話だ。
「最後のバンカー」の場合、ちょっとニュアンスが違う。
今現在でも銀行員は存在しているし、これからだって出て来る。銀行というシステムが崩壊に向かっているわけでもない。
とすると、ここで言う「最後の」は、単純な「ラスト」ではない。
「最後の典型的な」ないしは、「ラスト・グレート」みたいな、そういう含意だ。最後の偉大な銀行家。ま、お世辞だよね。銀行の人たちの日常言語だ。彼らはお世辞しか言わない。そういうことになっている。お世辞を言わない銀行員に会った経験を持っている私は、たぶん運が悪いのだと思う。
おそらく「最後のバンカー」という言い方には、「銀行家が銀行家らしかった時代の最後の銀行家」ぐらいな気分がこめられている。
「最後のジャーナリスト」も同じ。「ジャーナリストが一匹狼として生きていた時代の最後のジャーナリスト」ぐらい。
逆方向から読めば「この先、正しく《ジャーナリスト》と呼ぶことのできる人物は、二度と現れないであろう」みたいな、そういう詠嘆が読み取れる。要するに、ここで言う「最後の」の背景には、「滅び行くもの」「過ぎ去っていく時代」「移り変わりつつある世相」への哀惜があり、彼らを過去に押しやろうとする時代の流れに対して異議を唱えんとする意図が介在しているわけだ。
「最後のスラッガー」「最後のストライカー」「最後の軍人」「最後の侠客」「最後の番長」も同じだ。この言い方をする時、人は、過去を賛美する気持ちを抱いている。懐古趣味。「モダンサッカーなんてインチキだよ」とか、「本当の野球人は昭和とともにこの世界から消えたのだ」とか、「嗚呼、軍人に節操を求めること自体、時代錯誤なのであろうか」とか、そういうびしょびしょの詠嘆があずかっている。
さて、西川氏は、素敵なバンカーだったのだろうか? 善き銀行家であったのだろうか。
そういう話ではない。
良かったとか悪かったとか、そんな単純な問題ではない。
いくつかの記事や書籍を読むに(ということはつまり、私が、以下に書くことは半ば受け売りだということだが)、西川氏は、強引で、非情で、不羈奔放で、底の知れない銀行家であり、しかもあっと驚くような腹芸をやってのけるかと思えば、七面倒くさい根回しもできる、清濁併せ呑む度量を持った「昔のタイプの」経営者だった、ということになっている。
単なるエコノミストではない。
組織の歯車でもない。
サラリーマンなんかでは全然ない。
政治家的な手練手管と、その道の人間じみた強面と、フィクサーライクなあれこれを兼ね備えた規格外の銀行家なのである、と、「ラスト」には、そういう気分がこもっている。
サッカーで言えば、「個人で突破して行くタイプ」。
パスなんか出さない。
守備もしない。
でも点は獲る。
どんな手段を使ってでも。
時には、手を使ったヘディングも辞さない。そういうことだ。
だよね? 西川さん。
だから、現在の水準で彼のやり方を評価すると、控えめに言っても「違法行為スレスレ」ぐらいになる。いや、これは私が言っているのではない。こういう言葉を使う人もいるよ、という話を紹介している。そう思って読んでほしい。
以上の如き批判には、おなじみの反撃がある。
「燕雀 ( えんじゃく ) いずくんぞ 鴻鵠 ( こうこく ) の志を知らんや」
というあの定番フレーズだ。
大物と呼ばれる人々は、古来、説明をしなかった。
彼ら「鴻鵠」(大物、大人、偉人、傑物)を自認する側の人間から言わせれば、「燕雀」(←庶民、小人、愚民)に説明することは、無用であるのみならず有害でさえあるのだ。
「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」
と。
なるほど。
孔子が経営者に人気なのは当然ですね。世界を「君子」(指導者)と「小人」(追従者)に分けた上で、もっぱら君子に向かって話しかけているわけだから。どうしたってリーダーを自認するアタマの良いつもりでいる人々の心に訴える。なんというアタマの良さ。
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