「人生の諸問題」

息子の「才能を見つける」か、「才能がない人生の愛し方」を教えるか?

【番外編】元横浜ベイスターズ・高木豊さん×岡康道さん対談【前】

バックナンバー

2009年7月17日(金)

1/5ページ

印刷ページ

―― 本編にたびたび登場したウワサの「T氏」こと、高木豊さんに今日はお越しいただきました。

 『人生2割がちょうどいい』の本を、高木さんは買ってくれたんだよね。

―― ありがとうございます。

 本屋で探してくれたんだよ。

高木 汗だくになって探しました。

―― 各方面で在庫切れになっている中、本当にありがたいです。

 だよね。まあ、買え、と僕が言ったんだけど(笑)。

岡康道、伝説の「モルツ球団」に高木選手をスカウト

―― お2人がお知り合いになったきっかけは、何だったのでしょうか。

 もうずいぶん前になりますが、僕が電通時代に、サントリーの広告で「モルツ球団」を手がけたときです。

※ モルツ球団:1995年、96年に放映されたサントリーモルツのCFで編成された、引退選手たちによる“ドリームチーム”。メンバーは大沢啓二を監督役に、江川卓、川藤幸三、衣笠祥雄、田尾安志、高木豊、高橋慶彦、達川光男、原辰徳、張本勲、真弓明信、山本浩二、ランディ・バース。

高木豊(たかぎ ゆたか)
1958年山口県生まれ、中央大学卒。1980年にドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団。俊足、鉄壁の守備で2年目より1番セカンドのレギュラーに定着。1983年から4年連続で打率3割をマーク、1984年には56盗塁で盗塁王に輝く。1990年は打率3割2分3厘でリーグ2位。加藤博一、屋鋪要らとスーパーカートリオとして活躍した。1993年、当時巨人の駒田徳広獲得に伴う大量解雇で自由契約となり日本ハムファイターズに移籍。1994年に現役を引退、1995年フジテレビジョン野球解説者に就任。2001年には横浜の内野守備走塁コーチに就任するが、1年で辞任。再びフジテレビ解説者となり、「熱チュー!プロ野球2004」のベンチ解説などの傍ら、2003年より長嶋茂雄が監督を務めるアテネオリンピック野球の代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。主なタイトルは盗塁王1回(1984) 、ベストナイン3回(1985、1990、1991) 、ゴールデングラブ1回(1983) 、オールスター出場8回。通算成績は1628試合出場、1716安打、打率2割9分7厘、88本塁打、545打点、321盗塁
(写真/大槻 純一 以下同)
画像のクリックで拡大表示

高木 僕は、ちょうど引退したタイミングだったんですよ。

 モルツのメンバーを決めていたころで、セカンドが空いていたんです。で、タクシーに乗っているときに、「高木豊氏が引退しました」というニュースを聞いて。

高木 空けていたんでしょう。

 うん、空けていたんだよ。まあ、空いていたんだけど(笑)。

高木 家に帰ったら、女房から「電通からコマーシャル依頼の電話があった」と言われて、何の話かと思ったよ。だって現役のときに来ないのに(笑)。

 モルツは引退した人たちのチーム。引退した瞬間に資格が与えられるんだよ。

高木 それで岡さんと会ったんだけど、忘れもしません。電通のビジネスマンと言えば、物事を理路整然としゃべってくるんだろうな、と思っていたら、会うなりすごいテンションで、僕の学生時代のことから、オタクネタのようなことまでを、いろいろ掘り出してくるんだよ。「何なんだ、この人は。ストーカーか?」と、思いましたよ(笑)。

岡さんは初めから極度にマニアックだった

―― 例えばどのようなことを。

高木 例えば僕がスイッチヒッターだった年があるんです。

 スイッチヒッターだから、左ピッチャーのときは右打席に立ちますよね。だけど、山本和という左ピッチャーが阪神にいて、9回満塁のときに高木は左打席に立ったんです。それで、これは何かやるんじゃないかな、と期待してテレビを見ていたら、サヨナラ・セーフティー・バント。でも、それをやるんだったら、右でやった方がよかったんじゃないか、と思ったので、そんな質問をしたんだけど。

―― 高木さんがスイッチヒッターだったのは、いつの話でしょうか。

高木 1984年かな、あれ。

―― 1Q84。

高木 それ、会って話していたときから遡って11年前のことですよ。

―― ちなみに左打席に立たれた理由は何だったのでしょうか。

高木 技術的に右でそこまで達していなかったので。

 あのときはサインだったの?

高木 いや、僕の判断。その前に、大事な場面だから、右で立つと代打を送られてしまう、という意識があった。

 何をするかは関根(潤三)監督にも言わなかったの?

高木 全然。内緒ですよ、それは。まずは味方からだまさないとね。

 で、それをきっかけに高木はスイッチヒッターをやめているわけよ。

―― というような細かい話をされたんですね。

高木 だからこの人はちょっと変わっているな、と。

クリエイティブディレクター 岡 康道氏
画像のクリックで拡大表示

 いや、そのときはプレゼンテーションですからね。こんないい話に乗らない手はない、という気持ちにさせなくちゃいけないでしょう、当然。普通よりもテンションは、もちろん高くなっていましたよ。それで、高木とよく話をするようになったのは、実際の撮影が始まってからですね。

高木 あのメンバーは大沢監督をはじめ、もう、とんでもない人たちがたくさんいて、とにかく一筋縄ではいかないわけです。

ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。



関連記事

Keyword(クリックするとそのキーワードで記事検索をします)

Feedback

  • コメントする
  • 皆様の評価を見る
内容は…
この記事は…
コメント6 件(コメントを読む)
トラックバック
著者プロフィール

清野 由美(きよの・ゆみ)

ジャーナリスト。
1960年生まれ。82年東京女子大学卒業後、草思社編集部勤務、英国留学を経て、トレンド情報誌創刊に参加。「世界をまたにかけた地を這う取材」の経験を積み、91年にフリーランスに転じる。国内外の都市開発、デザイン、トレンド、ライフスタイルを取材する一方で、時代の先端を行く各界の人物記事に力を注ぐ。『アエラ』『朝日新聞』『日本経済新聞』『日経ベンチャー(現・日経トップリーダー)』などで執筆。著書に『セーラが町にやってきた』(プレジデント社)、『ほんものの日本人』(弊社刊)、『新・都市論TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(集英社新書・隈研吾氏と共著)『「オトコらしくない」から、うまくいく』(佐藤悦子氏と共著・日本経済新聞出版社)など。

小田嶋 隆(おだじま・たかし)

小田嶋 隆

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。 ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。

岡 康道(おか・やすみち)

岡 康道

クリエイティブ・ディレクター、CMプランナー。
1956年生まれ。80年早稲田大学法学部卒業後、電通に入社。CMプランナーとしてサントリー「BOSS」「南アルプスの天然水」、JR東日本「その先の日本へ。」など、時代を代表するキャンペーンを手がける。97年、JAAAクリエイター・オブ・ザ・イヤー受賞。
99年に日本最小最強のクリエイティブ・エージェンシー「TUGBOAT」を川口清勝、多田琢、麻生哲朗とともに設立。主なクライアントに、サッポロビール、大和証券、富士ゼロックス、リクシル、NTT東日本、大和ハウス、NTTDoCoMoなど。TCC最高賞、ADC賞、ACC賞、ニューヨークADC賞、クリオ賞など受賞多数。TCC会員、ニューヨークADC会員。現在、雑誌ポータルサイト「magabon」にて、エッセイ連載中。近著に「ノンタイトル」(電子書籍)



このコラムについて

人生の諸問題

日本語は今や、ウェブ上で全世界でもっとも流通している言語だといわれるまでになった。しかも、読む人間より、書く人間の方が圧倒的に多いのだという。それほどまでに人々が文章を書いている一方で、相手に何かを伝えることの難しさは、むしろ増えているように思える。「誰もが発信者」、そんな史上初のシチュエーションを迎えた今、いったい私たちの「コミュニケーション」はどこに行くのだろう。広告の世界でクリエイティブディレクターとして活躍する岡康道氏と、コラムニストの小田嶋隆氏が、高校時代の同級生という縁から始まった「伝達」について、ゆるゆると語り尽くす…はずだったのだが?

⇒ 記事一覧

記事を探す

読みましたか〜読者注目の記事

  • いま、歩き出す未来への道 復興ニッポン

日経ビジネスからのご案内