6時間00分
「おつかれさまです」
職場に電話で連絡をいれるたび、相手の第一声になかなか慣れることができなかったものだ。ずいぶん昔、社会人になりたてのころのことだけれども。
外回りに出ては図書館で時間をつぶすことが多く、そんなうしろめたい気分があったから、余計に。内勤になってからも、自然に「おつかれさまです」が出るまでに、これまたずいぶん時間がかかり、それができるようになったころには辞表を出していた。
だから午後の電車で、大音量の着信音が鳴り響き、日焼けしたサングラスの若者がケータイを手にするや「おつかれさまです」と応えるのをまぶしげに眺めていた。
若者は、組んでいた足を下ろし、声を小さくしていた。なんとなく聞き耳を立てていたのだが、相手は「センパイ」で、いまイベントの仕込みをしていて、近くにいるならメシをおごってやるとのお誘いの電話らしい。若者は「いいっすねぇ」と答えていたものの、どこそこへ行くところで、とかわし、最後は「おつかれさまです」とケータイを切り、もとのように腰を浅くして、足を組みなおした。
電話の前で、ぺこぺこと頭をさげる光景を、コントなどでやっていたりするが、若者が先輩だとわかったとたんサングラスをはずし、組んでいた足を下ろすところや、「です、ます」調の受け答えは見事なものだった。
さて、本書は、この数年、なぜ「空気を読め」といわれるようになったのかを考えようというものだ。
それは、従来の日本を支えてきた「世間」が壊れはじめたことと関係している。機能しなくなった「世間」にかわるものとしてあらわれてきたのが「空気」であるというのが、著者の説だ。
ここでの「世間」は、あらっぽく要約すると、ある種の利害関係や同質性が内在するサークル、職場、学校、町内といったコミュニティをさし、「長幼の序」だとか「外部に対する排他性」などのルールを有するものをいう。
〈簡潔に言えば、僕は、「空気」とは「世間」の流動化したものと考えています〉、あるいは〈「世間」が、カジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているのです〉と、著者は、「空気=世間の流動化説」を細論している。
といっても、著者の狙いは、アカデミックな論議にあるわけではない。学校という「世間」に抗う思春期を過ごした鴻上尚史が、それがカジュアル化した「空気」に戸惑いを隠せない人たちに向けて、その対処法をともに模索しようとするのが本書の勘所だ。
「世間」に気をつかい、「社会」は無視する日本人
たとえば、電車の中というと、こんなエピソードがある。
日本に来て間もないフランス人が、山手線の電車内でバッグを忘れ、落ち込んでいた。けれど、探してみたら網棚に置かれたままの状態で見つかった。
ヨーロッパでは、こんなことはありえない。手を離したとたん誰かが盗んでいく。だから、これは奇跡だ。すばらしい国だ、と興奮気味に鴻上さんに話したそうだ。
別の日。同じフランス人が、今度はこんな話をはじめた。
やはり電車での出来事で、杖をついたお年寄りが優先席の前に立ったのに、みな知らん振りをしたり携帯電話をいじったりして、席を譲ろうとはしない。この国のマナーはどうなっているのか。ヨーロッパで考えられないことだ。
鴻上さんは、イギリスに留学経験もあり、ロンドンでモヒカンヘアーのパンクの若者が自然にお年寄りに席を譲るのを見てからというもの、優先席問題に注目してきたという。その観察によれば、欧米人の8割以上は、目の前に老人が立てば席を譲っていた。日本人はというと、5割を切るとか。
だからといって、日本人はマナーが悪いと決めつけようというのではない。さきのフランス人の話を聞いて、鴻上さんはしばらく考え、〈じつは、網棚に残ったバッグも、席を譲らない日本人も、同じ理由から生まれているんじゃないか〉と結論づける。
それを証拠づけるものは、これまた電車の中にある。
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