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太郎はおじいちゃんを失望させたか?~『吉田茂と昭和史』
井上 寿一著(評者:近藤 正高)

講談社現代新書、760円(税別)

  • 近藤 正高

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2009年7月31日(金)

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評者の読了時間9時間17分

吉田茂と昭和史』 井上 寿一著、講談社現代新書、760円(税別)

 1951年のサンフランシスコ講和会議にて、当時の日本の首相・吉田茂が受諾演説を行う映像を見ていたときのこと。吉田が「へいとう」と言うので、何のことかと思って演説の原稿を確認してみたところ、どうも「平等」をそう読んだらしい。

 現首相の麻生太郎は、漢字の読み間違いでマスコミに袋叩きにあったが、まさかその祖父である吉田茂までもがそんなミスを、しかも歴史の大舞台で犯していたとは! 気づいたときには鬼の首をとったような気持ちになったのだけれども、あとでよくよく調べてみたら、平等には「へいとう」という読み方もあるようだ。

 それにしたって、わざわざそんな一般的でない読み方をするとは、衒学的というか嫌味にも思える。もっとも、吉田はこのとき、英語で演説するつもりだったのを、アメリカの特使・ダレスの要請で日本語で行ったという経緯があるそうだから、彼にしては精一杯の譲歩が「へいとう」だったのかもしれない(ただ、吉田は同じ演説中でも、別の箇所では「びょうどう」と普通に読んでいる)。

 この逸話から、吉田の平等という概念に対する距離感を読み取るのはうがちすぎだろうか。講和条約における平等とは、日本と第二次大戦を戦った国々との関係を指すものだったが、同じ平等でも吉田は、国内における社会の平等化、平準化については敵視すらしていた。

 本書の冒頭で著者は、昭和戦前期と戦後期をとおした政策争点をめぐる対立軸として、外交政策における〈自立〉対〈協調〉を縦軸に、経済政策における〈自由〉対〈統制〉を横軸に配置し、そこに吉田茂をはじめ昭和の指導者、政治勢力を位置づけている。

 本書は、そんな戦前から戦後にまでいたる対立軸を手がかりに、吉田茂の同時代史としての昭和史を再現し、ひいては現在にも生きる教訓を見出そうというものだ。なお、著者はこれ以前にもほぼ同様の趣旨で『日中戦争下の日本』『昭和史の逆説』といった本を上梓している。

国家のためなら主義も曲げる

 さて、先述の座標軸のうち社会の平等化志向は、横軸の〈自由〉に対抗する〈統制〉に見出すことができる。戦前、日中戦争への突入を境に、従来の政党政治のもとでの経済的自由主義路線は後退し、代わって軍部や国家官僚、さらには無産政党により経済の統制化が推し進められ、それは政治や社会の分野にまで広がった。結果、上流階層と下流階層とのあいだで平等化が著しくなり、太平洋戦争中には社会の下方平準化が極限にまで達した。民衆もまたそれを望み、ゆえに戦争を支持したのである。

 対して自由経済を志向する吉田茂は、太平洋戦争末期、敗戦も辞さない覚悟で、統制経済体制を基礎とする国家社会主義化を食い止めようと終戦工作を画策する。が、憲兵隊に検挙され、約40日にもおよぶ厳しい取り調べと拘禁ののち、囚人服のまま帰されるという屈辱を味わう。日本の敗戦はそれから数カ月後のことだ。

 吉田と同じく、戦前より一貫して国際協調と自由主義経済の立場をとり、戦時中も政府批判を続けた人物がいる。「東洋経済新報」の主筆を経て戦後は政界に進出した石橋湛山、その人だ。石橋は1946年に発足した第1次吉田内閣へ大蔵大臣として入閣した。経済に関しては本来同じ志向を持つはずの両者だったが、やがて対立するようになる。なぜか? その理由は目的のためには手段を選ばない、マキャべリストともいうべき吉田の姿勢にあった。

 吉田は、首相就任の前年11月、幣原内閣に外相として入閣したときより、自由経済ではなく、戦時中からの統制経済路線の継続を選んだ。代表的な政策としては、石炭と鉄鋼に重点的に資金・資材を投じて工業生産全体の回復をめざした「傾斜生産方式」があげられる。さらには、国家が経済を統制するため、経済安定本部を設立した。

 なぜ吉田は、戦時中あれほど反発した統制経済を選択したのか、著者は次のように説明する。

〈吉田が首相の座に就いた時、戦後日本は危機に瀕していた。食糧だけではない。あらゆる物が足りなかった。経済危機を乗り越えるためにはどうすべきか。限られた資源をもっとも効率よく生産活動に分配する。貿易と通貨の徹底的な管理によって、外貨の獲得を図る。要するに戦後においてこそ、戦時中のような統制経済体制が必要となった〉

 これに対して石橋は、積極的な財政金融政策路線を打ち出したほか、経済安定本部の批判を行うなど、閣内から堂々と吉田に挑戦した。

 その石橋も、社会党を中心にした中道政権の結集を進めるGHQ急進派による自由党(当時吉田が党首を務めていた政党)の切り崩しのため、公職追放指令を受けて蔵相を辞任することを余儀なくされる。これと前後して1947年4月に実施された総選挙で社会党が第一党となり、6月には片山哲内閣が発足した。第1次吉田内閣の統制経済路線は、片山内閣に引きつがれる。経済安定本部による統制経済・国家管理はむしろ、「社会主義計画経済」を志向する社会党にこそふさわしいものであった。

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