「東京オトナの修学旅行 赤瀬川原平×山下裕二」

長生きするってすごい! 97歳まで生きて、最後まで裸婦を描く

池袋編・その3 豊島区立熊谷守一美術館

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2009年10月16日(金)

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山下 池袋駅から少し離れますが、我々二人が好きな画家・熊谷守一の個人美術館へやってきました。入り口の字も蟻の絵もいいですね。

赤瀬川 とても守一らしいです。

山下 実は、こういう風に描くのは難しい。

赤瀬川 こんなに拡大しても蟻だ!と思わせるんだから、すごい。

熊谷守一美術館は、守一が45年間住み続けた豊島区千早の旧宅跡に、1985年5月、次女の熊谷榧(かや)氏により個人美術館として開設された。2007年11月、榧氏から守一作品153点の寄贈を受け、豊島区立熊谷守一美術館となった。

山下 日本美術に関して珍しく赤瀬川さんに教えられたのが、熊谷守一です(笑)。もちろん存在は知っていたし、絵もそれなりに見てはいたんですけど、あらためてよさを教えられたんです。

赤瀬川 それは日本美術応援団を始める前?

山下 応援団を始めて間もないころです。赤瀬川さんが書いた『へたも絵のうち』(熊谷守一著・平凡社ライブラリー)の解説を読んで、はじめてきちんと熊谷守一にアクセスできたような気がします。

シンプルな線だが、蟻が生き生きとしている!

山下 熊谷守一は、東京美術学校(後の東京芸術大学)青木繁(*注1)と同級生で藤田嗣治(*注2)が後輩ですよ。

赤瀬川 佐伯祐三は?(*注3)

山下 後輩も後輩、すごく後輩ですよ。

赤瀬川 長生きするってすごいね(笑)。

山下 1880年生まれで亡くなったのは1977年です。なんと、97歳まで生きています。藤田嗣治がパリに行ったのが1920年で、守一はそのときすでに40歳です。

長く生きることの価値

赤瀬川 そうか、40歳。写実画的な画風から変化して絵の具を厚く塗るようになってきたころかな?

山下 画風はその頃行ったり来たり、けっこう揺れがありますし、あの独特の画風になったのはかなり年をとってからです。

赤瀬川 昔の画風の絵だって、渋くて上手いですよ。

山下 とても上手いです。オーソドックスな油絵もちゃんと描ける人です。

熊谷榧さん。画家、冒険家。

山下 今日は、熊谷守一の次女で、この美術館の館長の熊谷榧さんにお話を伺います。この美術館が区立になったのは一昨年でしたね?

 そうです。来年で25周年になります。この土地と建物の名義が私だったこともあって、個人で熊谷守一美術館を作ったのが1985年。佐伯祐三のアトリエが新宿に残っているけれど……。

赤瀬川 行きました。普通の公園みたいになってますよね。

 そうなんです。私も見に行きましたけど、やっぱり絵描きはもっと絵をみせた方がいいんじゃないかと思ったものだから、それまであった平屋を壊して、知り合いの建築家に新しく美術館を作ってもらいました。

赤瀬川 守一さん一家がここに移ってきたのはいつですか?

 昭和7年頃です。その前は東中野に長くいて、「陽の死んだ日」(注4)もそこで描いています。陽があまり差さないような家で、子どもが次々と病気をするものだから、母が和歌山の実家に子どもを三人引き連れて帰って、家を建てるからと言って3000円借りてきたそうです。でも、いろいろ生活の方にお金がかかって、残ったのは1000円。そのお金でここに引っ越してきたんです。

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著者プロフィール

赤瀬川 原平(あかせがわ・げんぺい)

赤瀬川 原平1937年生まれ。前衛芸術家にして芥川賞作家。路上観察学会長老。著書に『もったいない話です』他

山下 裕二(やました・ゆうじ)

山下 裕二1958年生まれ。明治学院大学教授。専門は室町時代の水墨画だが、広く日本美術全般にエールを送る。著書に『岡本太郎宣言』『日本美術の二〇世紀』他。

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