ビジネスマン諸君、もっと阿久悠を歌い、阿久悠に学ぼう!
何をいきなり、とお思いだろうが、一気に読み終えたばかりのワタシは、今、声を大にしてそう叫びたい。
カラオケで「作詞・阿久悠」の曲を歌う前に、本書を読んでおくと歌詞にシビれる度合いが段違いのはずである。
それだけではない。
仕事キャリア10年以上の人にも、「仕事」ってこういうことだったのか、と痛切に感じさせる「何か」が阿久悠の作品にはあると思う。
歌を通して、作詞活動の裏にある執念のような「胆力」をもらえば、自然と前向きな気持ちにもなるのだ。
著者は、阿久の生い立ちから他界するまで(1937-2007)を綿密な取材・下調べによって、阿久がハンパなく「仕事が趣味」のワーカホリックであったこと、また観察眼と分析力を持つ「静かな社会学者」でもあったことなどを解き明かす。
「まず歌手ありき」ではなく時代から発想する
デビューは30歳の時。遅れてきた作詞家だった。明治大学を卒業後、就職難の年に広告代理店へ入社。7年後、脱サラして作詞家へ転身した。
他界するまで作った歌詞は約5000曲。作品の総売上枚数は6826万枚(09.2時点/オリコン調べ)。日本レコード大賞の大賞には5回輝いた。
「津軽海峡・冬景色」「舟歌」「どうにもともらない」「学園天国」「勝手にしやがれ」「北の宿から」……。大ヒットした作品はまさしく枚挙にいとまがない。
では、阿久はいかにして芸能界でのし上がり、不動の地位を築いたのか。
それが、ビジネスマンが阿久に教えを乞うべき最大ポイントである、「ないものを作る」力だ。
1976年8月、阿久は作曲家・都倉俊一とのコンビで半年前まで女子高生だった2人を一躍スーパーアイドルに押し上げた。ピンク・レディーである。本書がつまびらかにしたところによれば、最初、彼女たちには関係者さえも期待していなかったらしい。
しかも、デビュー曲「ペッパー警部」を2人が直にレコード会社の編成会議に出席して振りを付けて初めて披露した時、それを見た人のほとんどは「こんなゲテモノ」とNOだった。ミニスカートで股を広げて屈伸する、あのセクシーな踊り。著名な振り付け師・土居甫によるものである。
期待値ゼロの無名の2人を阿久はいかに売り出したか。当時のピンク・レディーの担当ディレクター(現avex取締役)が著者のインタビューに答えている。
作戦は端的に言って、「変わったものをやるしかない」だった。その頃、新人賞レースのトップを走っていた新沼謙治と内藤やす子を逆転するため、都倉とともに立てた「非日常性のエンタメ路線」「歌のアニメーション化」という戦略。
「正統派メジャー」に対抗できるのは、阿久が作詞家としてやっていこうと決心した時に思ったように、異端でも傍流でも「存在を示す」スタイルで勝負するしかなかったのだろう。といっても、投げやりなのではない。
著者は分析している。
阿久の作詞のしかたは、旧来の「まず歌手ありき」ではない。聴き手である大衆や、「いま」という時代をどう捉えるか、というマーケティングの手法だった。
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