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「家族」マーケティングの栄光と落日

2010年1月25日(月)

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 たとえば、連休を利用して郊外に足を伸ばす。あるいはもっと遠くの観光地、でなければ墓参りでも良い。とにかく高速道路に乗る。そして、あるタイミングでサービスエリアに停車して、しばしの休憩をはかる。

 ここで、私は、ある感慨に打たれる。
 その感慨をナマの形で公表するためには、若干の勇気を要する。何様のつもりなのか、と言われた場合に、返す言葉が無いから。
 でも、言おう。そうしないと話が先に進まない。

 つまり、これから申し上げることは、自分のことを棚に上げて言っているのだということを補足した上で告白するに、私は、サービスエリアに集う人々を眺める度に、げんなりするのである。

「ああ、日本人は、いつからこんなに醜くなったのだろう」

 と、クルマからワラワラと降りてくる老若男女を眺めながら、いつもそう思うのだ。
 うむ。偉そうな態度だ。
 が、仕方がないのだ。だって、連休中のサービスエリアに集散する人々は、なぜなのか、どこからどう見てもファッショナブルなカタチをしていないからだ。
 なぜだろう。

 今回は、この点について考えてみたい。
 つまり、わたくしども日本人が、高速道路のサービスエリアで、傍若無人に振る舞うようになったのはどうしてなのかということについて。および、われわれにとっての、「外出」「旅行」「クルマ」あるいは「ウチとソト」「家族と恋人」「夢と現実」「生活とスピード」……そういったあれこれについてだ。

 サービスエリアの人垣が、あんまり美しく見えないのは、たぶん、彼らが外面を気にしていないからだ。

 何時間かクルマの中で身を縮めていて、しばらくぶりに外に出る時、人々の気持ちは、まだ、「外界」に適応できていない。というよりも観察するに、そもそも外出用の服装を身につけていない向きも多い。部屋着、あるいは、狭い車内で楽に過ごすための寝間着に近い衣服を着てクルマに乗り込んでいる。

 しかも、ドアを開けて車外に踏み出す時、乗客はまだ、車内にいた時の、身内同士の、だらしなくくつろいだ気分をひきずっている。当然、パブリックな緊張感を抱いていない。さよう。彼らは、人前に出る際の覚悟を持つことなく、スエットの上下にサンダルをつっかけたみたいな姿で、公的な空間の中に漏れ出てしまっているのだ。

 のみならず、彼らのうちの半数ほどは、周囲が見えていない。差し迫った尿意が視界を狭めている。だから、おもむろに車道を横断したりもする。通路に駐車する運転手もいる。つまりマナーが守れない。ふだんは折り目正しく暮らしている人々であっても、だ。

 周囲に気を配る余裕を持っていないのは、トイレに向かって歩く人々だけではない。
 自動販売機に行列する若者たちも、外に出るなり歩行喫煙を始めるオヤジも、車中のゴミを持ち出して歩くご婦人方も、寝起きの髪型で、あるいはスッピンを晒して歩いている。むずかる子供や、降りるなり路上で排泄を始める犬も、マナーに気を配る気配を見せない。いや、無理もない話ではあるのだ。朝から長時間窮屈な姿勢で座っていたわけだから。でも、やっぱり見ているとげんなりする。私は、まっすぐ帰るべきなのかもしれない。高速を逆走してでも。いや、逆走はいけない。ジャージで歩くこと以上に。

 同じような人だかりでも、たとえば、新幹線の車両から降りてくる人々は、もう少し整然としている。

 緊張感に欠ける部分はあっても、いくらなんでもフリースの長パンツに丹前を羽織っていたりはしない。デパートの催事場に集結するご婦人たちでさえ、これほどカオスではない。なんというのか、バーゲンにやってくる人々の間には、戦士の黙契みたいな規律がある。乱暴ではあっても一定の約束事は守るといったような。だから、混乱していてもだらしなくはない。だってそれじゃ獲物が獲れないもの。

 もうひとつ申し添えるなら、いわゆる「ミニバン」と呼ばれるクルマから降りてくる人々のたたずまいが、ひときわ自堕落であるように見える。ええ。そうです。そういうふうに私の目には見えます。

 偏見?
 そうかもしれない。
 でも、そう見えるのだから仕方が無い。
 いや、ミニバンが悪いのではない。
 ミニバンに乗る人々は、多人数でクルマに乗っているケースが多い。
 だから、クルマから降りて来る時の排出感が、それだけ濃厚である、と。そういうことかもしれない。

 でも、それだけではない。
 たぶん、ミニバンは、セダンやクーペといったエクステリア重視のよそ行きのクルマと違って、より「内向き」の思想を宿したクルマで、だから、ミニバンの中の人たちは、セダンから降りてくる人たちに比べて、より「外界」を意識していない。そういう事情があるような気がする。

 サービスエリアの駐車場に集うクルマのうちに、ミニバンの比率が目に見えて増えだしたのは、平成にはいってからのことだ。特に、二十一世紀にはいってからは、セダンやクーペといった「普通の」(←と、私たち旧世代の人間がそう思っている)クルマの方がむしろ珍しくなっている。

 そうなのだ。荷物が一杯積めて、乗り降りが楽で、マルチな利用形態に対応することのできるミニバンがスタンダードになってからこっち、クルマに関する基本的なマナーが、変化した、と、そういうことなのである。善し悪しは別にして。

 だから、私のような、古い時代の人間、すなわちクルマに対して身構えていた世代の人間は、部屋着の感覚をそのまま路上に持ち出してしまうミニバン時代のドライバーやナビゲーターの姿に、違和感を禁じ得ない。

「おいおい」

 と、私は思う。

「パジャマで降りてくるのは、いくらなんでもあんまりなんじゃないのか?」

 と。

 私が子供だった頃、自動車を持てる家は、少数派だった。
 クラスのうちのほんの幾人かの恵まれた家の子供だけが、自家用車で旅行に出かける特権を持っていた。そういう時代だったのだ。
 
 大人になってからしばらくしても、そういう時代が続いた。クルマは依然として、高級で、おしゃれで、非日常で、陶然とさせる何かだった。

 さすがに、1980年代を過ぎると、クルマそのものが特別な乗り物である時代は過ぎ去っていた。
 でも、やっぱりまだ、クルマに乗るということは、晴れがましいことで、心浮き立つ経験だったのである。特に都市に住む若い男の子たちにとっては。

 だから、クルマに乗る時、昭和の若者は、むしろ着飾ったものだった。
 それだけ、「よそ行き」の気分で、われわれは運転席に座ったのである。
 でなくても、ドライブは、おしゃれをして臨む、特別な機会だった。

 ん?
 ドライブを知らない?
 なるほど。

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「「家族」マーケティングの栄光と落日」の著者

小田嶋 隆

小田嶋 隆(おだじま・たかし)

コラムニスト

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、紆余曲折を経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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