日直のチノボーシカです。風邪が治らなくて、先週お休みしてしまいました。ごめんなさい。
前回に続き、大江健三郎の短篇が、1996年刊の自選集に収められたときに、地の文および登場人物の台詞における〈トルコ〉〈トルコ風呂〉などの表現が、当時存在しなかった〈ソープ〉という表現に変えられた、という話である。
たとえば、夏目漱石の『行人』(1913年完結)で、こんな一節がある(議論の性質上、新字新かなで引用)。
表へ出た時、彼は始めて気のついたらしい顔をして、向う側の白い大きな建物を眺めた。
「やあいつの間にか勧工場が活動に変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」
この〈彼〉の台詞のなかにある語が、似たようなものをさすべつの語に置き換えられて、こう変わっていたらどうだろうか。
「やあいつの間にかショッピングモールがシネコンに変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」
「いつ変ったんだろう」と言いたいのは読者のほうだ。
むろん、作家には登場人物に「未来の言葉」を喋らせる自由がある。町田康の『パンク侍、斬られて候』やミシェル・トゥルニエの『オリエントの星の物語
』では、作家が敢えて登場人物に「未来語」を喋らせて、特異な効果をあげている。そこまで極端でなくとも、時代小説は原則として現代人に気にならない程度に現代的な表現(作中年代に相当する歴史上の一時期から見たら未来語)を使って書くものである。
ただ、それが浮いてしまうこともあって、大江健三郎の「上機嫌」(『見るまえに跳べ』所収)「セヴンティーン」(『性的人間
』所収)の改稿版では、少なくとも私には、本文としてはやや残念なことになっていると感じられた。事情はどうであれ、書き換えのせいで、昭和情緒は台無しになってしまった。執筆当時には存在しなかった、作品としての「古色」が、せっかくついていたのに。
もちろん作者である大江さん自身は、作品を昭和という限定された文脈のなかに置かずに読んでほしいと思っているだろう。けれど、私のなかの「上機嫌」「セヴンティーン」に存在してほしいのは「ソープランド」ではなくあくまでも〈トルコ風呂〉のほうである。
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