「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」

61. あいまいなソープランドの私(中)

『情熱大陸』が取り上げない大江健三郎。

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2010年2月3日(水)

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行人』夏目漱石 著、角川文庫、441円(税込)

 日直のチノボーシカです。風邪が治らなくて、先週お休みしてしまいました。ごめんなさい。

 前回に続き、大江健三郎の短篇が、1996年刊の自選集に収められたときに、地の文および登場人物の台詞における〈トルコ〉〈トルコ風呂〉などの表現が、当時存在しなかった〈ソープ〉という表現に変えられた、という話である。

 たとえば、夏目漱石の『行人』(1913年完結)で、こんな一節がある(議論の性質上、新字新かなで引用)。

表へ出た時、彼は始めて気のついたらしい顔をして、向う側の白い大きな建物を眺めた。

「やあいつの間にか勧工場が活動に変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」

この〈彼〉の台詞のなかにある語が、似たようなものをさすべつの語に置き換えられて、こう変わっていたらどうだろうか。

「やあいつの間にかショッピングモールがシネコンに変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」

「いつ変ったんだろう」と言いたいのは読者のほうだ。

オリエントの星の物語』ミッシェル・トゥルニエ 著、榊原晃三 翻訳、白水社、2940円(税込)

 むろん、作家には登場人物に「未来の言葉」を喋らせる自由がある。町田康の『パンク侍、斬られて候』やミシェル・トゥルニエの『オリエントの星の物語』では、作家が敢えて登場人物に「未来語」を喋らせて、特異な効果をあげている。そこまで極端でなくとも、時代小説は原則として現代人に気にならない程度に現代的な表現(作中年代に相当する歴史上の一時期から見たら未来語)を使って書くものである。

 ただ、それが浮いてしまうこともあって、大江健三郎の「上機嫌」(『見るまえに跳べ』所収)「セヴンティーン」(『性的人間』所収)の改稿版では、少なくとも私には、本文としてはやや残念なことになっていると感じられた。事情はどうであれ、書き換えのせいで、昭和情緒は台無しになってしまった。執筆当時には存在しなかった、作品としての「古色」が、せっかくついていたのに。

 もちろん作者である大江さん自身は、作品を昭和という限定された文脈のなかに置かずに読んでほしいと思っているだろう。けれど、私のなかの「上機嫌」「セヴンティーン」に存在してほしいのは「ソープランド」ではなくあくまでも〈トルコ風呂〉のほうである。

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著者プロフィール

千野 帽子(ちの ぼうし)

パリ第4大学博士課程修了。京都在住の勤め人・俳人。2004年より休日のみ文筆業。著書に、「東京新聞」連載をまとめた『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』『世界小娘文學全集 文藝ガーリッシュ舶来篇』(河出書房新社)、「野性時代」連載をまとめた『読まず嫌い。』(角川書店)、読書漫筆集『文學少女の友』(青土社)。「ミステリマガジン」「ジャーロ」にて連載、また「東京新聞」「讀賣新聞」「SPUR」「Figaro japon」「BRUTUS」「HanakoWEST」「yomyom」「週刊文春」「文藝」「文學界」「すばる」「ユリイカ」「真夜中」「小説トリッパー」「早稲田文学」「ダ・ヴィンチ」「週刊読書人」「別冊宝島」などに寄稿。



このコラムについて

毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド

この連載は、「働く大人」の読者の疲れを癒し、リフレッシュして勤労意欲を高めるのに向いた文学作品のガイド、では断じてない。そうではなく、こちらが文学の世界に単身潜入して、大人の読者に向けてレポートするものである。ここで取り上げるのは、働くということにまつわる、個別の奇妙さ、ヘンテコさ、そこから立ち上がってくる疑問をうじうじと、ひとつひとつ拾っていく、そんな文学や漫画。私たちが毎日そんなことをしていれば、仕事が立ち行かなくなるから、代りに文学がそれをやってくれている。腸内細菌のようなものだが、腸内細菌と違って、なにかの役に立つという保証がないのが文学だったり漫画だったりするのである。そういうものを紹介する連載だ。だから、仕事中にこっそり読んでほしい。

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