「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」

62. あいまいなソープランドの私(後)

人が「逆・言葉狩り」をしてしまうとき。

バックナンバー

2010年2月4日(木)

1/4ページ

印刷ページ

 日直のチノボーシカです。前々回前回の続きです。

 考えてみれば、1980年代末から90年代半ばまでというのは、表現にかんしてピリピリするようなことが多かった。

 たとえば1988年から翌年にかけて、『ちびくろサンボ』の各社の版がつぎつぎと絶版になっていったし、昭和天皇の体調不良にさいしては全国的に歌舞音曲を自粛する主催者が続出した。90年には『手塚治虫漫画全集』が出荷停止になった。91年になると、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』を翻訳した五十嵐一教授が殺害された。93年には、大江健三郎の文学上の友人である筒井康隆が、旧作「無人警察」(『にぎやかな未来』所収)にたいする日本てんかん協会の抗議を受けて断筆を宣言している。

小説のゆくえ』筒井康隆 著、中公文庫、720円(税込)

 この断筆は各方面に衝撃を与えたらしい。筒井さん自身の意見表明や各版元と取り交わした文書は『断筆宣言への軌跡』『小説のゆくえ』『エンガッツィオ司令塔』『笑犬楼よりの眺望』『笑犬楼の逆襲』などで読める。この話題には関連書籍も多く、小林よしのり・山下洋輔・絓秀実・平岡正明らがそれぞれの立場から発言した。

 筒井さんの断筆を挟む数年間、私は日本に住んでいなかった。噂は伝わってきたが、なにしろインターネットが普及する前のことで、なりゆきを知ったのは少し遅れて帰国してからのことだ。だから、時代の雰囲気を自分なりに再構築するために、ちょっとそのへんのことを書き並べてみた。

小説の経験』大江健三郎 著、朝日文芸文庫、714円(税込)

 大江光さんには癲癇の症状もあったらしく、父である大江健三郎は当時、《朝日新聞》紙上の文芸時評(のち『小説の経験』所収)で、〈日本てんかん協会に、切実な抗議の動機があるように、筒井氏にも、その孤独な奮闘の激しいスピードからくる摩擦の積み重なりが感じとられた〉と書いている。ここで奮闘と言っているのは、ディケンズに見られるような〈断固として面白い小説を書いてやるという、偏執狂めいた才能の奮闘〉を方法化したのが筒井さんである、という大江さんの筒井康隆観である。

 たがいにリスペクトしあいながらこの点で鋭く対立するふたりの作家は、1994年に新聞でこの問題について対談した(朝日新聞「断筆」争点)。大江さんのノーベル賞受賞の半年前のことだ。その最後の部分にある大江さんの言葉を引こう。

大江 あなたと対立したまま終わりますが、お考えの根本的なところはよくわかりました。

2年後に『大江健三郎小説』の刊行がはじまったとき、まだ筒井さんの断筆は続いていた。

ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。


関連記事

Keyword(クリックするとそのキーワードで記事検索をします)

Feedback

  • コメントする
  • 皆様の評価を見る
内容は…
この記事は…
コメント7 件(コメントを読む)
トラックバック
著者プロフィール

千野 帽子(ちの ぼうし)

パリ第4大学博士課程修了。京都在住の勤め人・俳人。2004年より休日のみ文筆業。著書に、「東京新聞」連載をまとめた『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』『世界小娘文學全集 文藝ガーリッシュ舶来篇』(河出書房新社)、「野性時代」連載をまとめた『読まず嫌い。』(角川書店)、読書漫筆集『文學少女の友』(青土社)。「ミステリマガジン」「ジャーロ」にて連載、また「東京新聞」「讀賣新聞」「SPUR」「Figaro japon」「BRUTUS」「HanakoWEST」「yomyom」「週刊文春」「文藝」「文學界」「すばる」「ユリイカ」「真夜中」「小説トリッパー」「早稲田文学」「ダ・ヴィンチ」「週刊読書人」「別冊宝島」などに寄稿。



このコラムについて

毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド

この連載は、「働く大人」の読者の疲れを癒し、リフレッシュして勤労意欲を高めるのに向いた文学作品のガイド、では断じてない。そうではなく、こちらが文学の世界に単身潜入して、大人の読者に向けてレポートするものである。ここで取り上げるのは、働くということにまつわる、個別の奇妙さ、ヘンテコさ、そこから立ち上がってくる疑問をうじうじと、ひとつひとつ拾っていく、そんな文学や漫画。私たちが毎日そんなことをしていれば、仕事が立ち行かなくなるから、代りに文学がそれをやってくれている。腸内細菌のようなものだが、腸内細菌と違って、なにかの役に立つという保証がないのが文学だったり漫画だったりするのである。そういうものを紹介する連載だ。だから、仕事中にこっそり読んでほしい。

⇒ 記事一覧

記事を探す

読みましたか〜読者注目の記事

  • いま、歩き出す未来への道 復興ニッポン

日経ビジネスからのご案内