約束には大きく分けて3つの形がある。最初はごくゆるい個人的な決まりの水準で発生する。毎日1万歩以上歩くことを自分に約束するといったぐあいだ。ここでは自分との間で対話がある。「君、ちゃんと歩くんだよ」という命令とも、要請ともつかぬ問いかけに、「うん、歩くとも」と約束するのである。ぼくたちはつねに自己との間でこうした会話をつづけているものであり、誰もほんとうの意味で「一人」である人はいない。
しかし実は自己との約束というのは、矛盾した言葉である。自己との約束は、約束にはならないからである。気分が変わったら、それでおしまいだからだ。散歩のことはすっかり忘れてしまっても、当分はそれを咎める者はいなくなっているからである(もっとも後で、ほら、約束したじゃないかと、咎める者がふたたび現れないとかもかぎらない)。
咎める他者という条件
咎める他者がいることが、ほんらいの約束の大切な条件である。クリスマスにケーキを買ってくると約束したならば、もしもぼくが忙しくてそのことをつい忘れていても、子供にしっかりと咎められることだろう。「おとうさん、クリスマス・ケーキ、買ってくると約束したじゃない!」。約束を守れなかったぼくは、たちまち咎められるべき者として、他者のまなざしの前にさらされる。約束を守ることのできなかった者は、道徳的に咎められるべき劣った存在となるのである。たんなる口約束という些細に思える行為が、たちまち厳しい責任を約束した者に負わせるのである。
この他者との約束がさらに公的なものとなると、契約という行為になる。この契約は、契約された事柄について最終的な決まりを定めるものである。売買契約を締結して、何かを購入した後に、契約に基づいて支払わなかった場合には、賠償が求められる。これを拒んだ場合には、最終的には身体の拘束にまでいたる可能性がある。この約束は、道徳的な責任よりもはるかに厳しいのである。
契約のうちでもっとも広範なものが、社会契約である。もちろんこの契約はぼくたちが実際に署名したものではないが、この社会に生まれた者は、そこに暮らしているかぎりで、社会の規範を守ることを暗黙のうちに契約しているのである。買い物をして代金を支払うとき、ぼくたちは毎日、その契約に署名し直しつづけているのである。物品を購入するときにはその代価を支払うべしという社会の規範と法律にしたがっているのであり、売り手である他者もその規範と法律を守って、瑕疵のない物品を売ってくれることを期待しているからである。
約束にまつわる難問
ただしこの約束という行為には、いくつかの重要な難問がある。第一にこの約束という行為は、人間の自由を否定するかのようにみえる。ルソーによると自由であるということは、自由な意志をもつことである。この意志というものは、つねに変わりうるものである。そこに意志の自由の本質があるのである。今日意志したことを、明日意志することは、誰にも保証することができない。「意志が明日のことについてみずからを拘束するということは道理に合わない」[1]のである。
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