ところで、「来年は一緒にパリに行こう」と何かを約束することと、「来年は一緒にパリに行こう、約束するよ」と言うことには微妙な違いがある。最初の約束の言葉は、たんに希望を述べたものかもしれないし、空約束のつもりで言っただけのことかもしれない。しかしこの希望とも約束ともとれる言葉に「約束するよ」という語をつけ加えることは、他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになる」[1]のである。
フレーゲの命題論
ドイツの哲学者のフレーゲがかつて、ある命題の〈思想〉とその〈真理性の確認〉と〈断定的な表現〉の区別をしたことがある。たとえば秋晴れの日に「キンモクセイの匂いがする」と思ったとする。これはぼくの感じた内容を言葉で表現したものである。この命題の〈思想〉は一般的に表現すると「空中に漂っているキンモクセイの強い匂い(の存在)」と言えるだろうか。これは実はキンモクセイではなく、香料の匂いだったかもしれない。
だからぼくが周囲を見回して、キンモクセイのあの橙色の花をみつけたら、「ぼくがキンモクセイの匂いをかぐ、ということは真である」[2]ということになるだろう。これは抽象的な思想の内容だけではなく、その命題が真であることを主張しているわけだから、〈真理性の確認〉という行為になる。そして身辺を見回して、これが樹木の花の匂いではなく、合成の香料の匂いだったとしたら、「ぼくがキンモクセイの匂いをかぐ、ということは真ではなかった」と認めるだろう。それは〈真理性の確認〉が否定されたということだ。
さらにそれを言葉で他者に表現して「ぼくがキンモクセイの匂いをかいだ」と告げることは、またこの命題に別の機能と意味を与えることになる。ぼくはそれを単に真理と判断したのではなく、他者に向かって断定したからだ。ぼくは他者にたいして〈断定的な表現〉を行ったことになる。
フレーゲのこの命題論は、存在や無のような形而上学的な概念を考察するのではなく、言葉の働きそのものを考察するものであり、当時のハイデガーなどの哲学の仕方とはまったく異なるユニークなものだった。
語られた言葉の機能を分析する哲学のしかた
だから約束するという行為も、同じようにパリへの一緒の旅行という思想と、ぼくがそれを真摯に考えているという保証と、それを約束として明言する行為というふうに、分解することができる。これらはそれぞれの段階で、異なる意味と機能をはたすのである。
別の例で考えてみれば、「君はぼくに何かを隠しているね」と相手に語った場合には、君の秘密という思想と、君がぼくに秘密をもっているとぼくは考えるという思想内容が語られている。同時にそれを語ることで、相手に秘密を打ち明けるように求めるという行為の意味が含まれるだろう。もしもそこで、「君はぼくに何かを隠しているね、ぼくはそれを知っているよ」と語ったならば、「ぼくはそれを知っている」ということで新た意味と機能がつけ加えられるだろう。このような語られた言葉の機能を分析する哲学のしかたは、日常言語分析と呼ばれる。これはイギリスで発達した哲学の方法であり、とくにオースティンとサールが始めた考察は、言語行為論と呼ばれる。
この時期のイギリスでは、哲学のテーマとして言語に注目が集まっていた。イギリスに移住していたウィトゲンシュタインは、哲学の問題は日常言語の問題であると考えて、次のように指摘していた。
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