ぼくは外出に手間がかかる
外出するとき、ぼくは、ひどく手間と時間がかかる。
ガスの火は消えているか。蛇口から水が出続けていないか。
そんな「ありえない」ことばかりが気になって、玄関のドアを3回も4回も出入りする。
ガスの元栓は……閉まっている、やはり大丈夫だ。
しかし、元栓から視線をはずした瞬間、再び、不安に襲われる。

「自分の手がきちんと栓を閉めている映像」が、鮮明に頭に浮かぶなら安心だ。
そうできないときは、自分がたった今見たことなのに、どうしても信じられない。
元栓を閉めている印象を強めようと、いったん栓を開けて、また閉め直したりもする。
すると何ということだろう、「改めて閉めた」という事実よりも「ああ、今まで閉まっていた栓を、今、開けてしまった」という悔いのほうが強く働いて、いっそうひどい不安にかられるのだ。
狭い室内のことだ。気になることがたくさんあっても、やがてチェックは終わる。
だが、いったん馬鹿げた方向へ回りだしたぼくの頭は止まらない。むしろ加速する。玄関に突っ立ったまま、「気にすべきなのに、気にし忘れているチェックポイントはないか」と全力で考えている。
ほんとうにぼくは阿呆だ。「心配し忘れていることはないか」とむりやり心配の種を探すのだから、いつまでたっても安心できるわけがない。
もちろん「外出時のチェックポイント一覧表」も作ってみた。事態は変わらない。表の項目をすべてチェックしても、玄関から一歩出た瞬間に「ほんとうに表をちゃんと見たのか」と不安になり、「そもそも表に書き忘れたチェックポイントがあるのではないか」と疑念で頭をいっぱいにするだけである。
まともな理由のない心配だから、歩いて駅にたどり着くころには、たいてい吹っ切れている。
しかし調子が悪いときは(調子がいいときと悪いときがあるのだ)、電車に乗っていくつ駅を過ぎても不安は収まらない。ついには降車し、ホーム反対側の電車に乗って家まで戻ってしまう。
そして「ぼくは馬鹿だ、もう一生、外出できないのではないか」と泣きたいほどの焦りを覚えながら、部屋の中を行ったり来たりして、100%問題ないと最初からわかっている元栓やスイッチを調べ続けるのである。
一冊の哲学書との再会
今から数十年前、ぼくがまだ20代のある日、図書館で一冊の哲学書を手に取った。初めて見る本ではない。おそらく中学生のころに読んでいる。しかし、あまり印象に残っていなかった。
このとき手に取ったのは「たまたま」だ。そして、「たまたま」開いたページに、ぼくの馬鹿げた内面が記されていた。
霊魂の最大の動揺は、〔……〕或る不合理な勝手な妄想をいだくことによって、そのような恐ろしいことを予期し懸念するにいたるところに生じることもある。
道ばたの占い師に心の奥底を言い当てられた気がして、ぼくはあわてた。すぐに借りて、読み直した。
中学生の印象とは異なって、今度は、とてもおもしろいと思った。
それは「心に不安や恐怖を持たないこと」を目的とした哲学だった。
書いたのは紀元前341年にギリシアで生まれたエピクロスだ。
快楽主義者エピクロス
エピクロスと言えば「快楽主義者」として知られている。
たしかに彼は「生きることはそれ自体よいことだ」と言い、「生の目的は快だ」と公言していた。「快楽主義者」と呼んでも間違いではない。
しかし、エピクロスを「ひたすら快楽を追求する遊び人」のように想像するなら、それは違う。
快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、―― 一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)ことにほかならない。
「みんな、すぐ誤解するんだよ」と困り顔のエピクロスだ、「私が言う快とは『苦がないこと』、つまり、いつも心が『平静』で、身体が『健康』なことなのにね」。
「粗食」の勧め
それでは、たとえば「毎日おいしいものをたくさん食べる」というのはどうだろう。それは「快」に違いなく、しかも決して心を乱すこともないのでは?
「ほらね、やっぱり、わかっていない」エピクロスは笑いながら否定するだろう。
「それは快ではない。私はみなさんに、むしろ『粗食』をお勧めしているぐらいだよ」と。
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1959年、東京生まれ。

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