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みずからの欠如を満たす狂おしい愛

わたしは愛する【1】

2010年6月24日(木)

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欲望の構造

 愛するということは、すべての人が行う人間的な行為であるにもかかわらず、日本語の表現としてはどうも熟していない。「わたしはあなたを愛しています」という言葉を、生涯のうちに一度もつかわない人もいるかもしれない。「好きです」というのが、日本語としては標準的だろう。

 だからここで「愛する」という言葉は、それぞれにお好きなように言い換えていただきたい。ぼくが考察しようとするのは、「愛する」という行為を支える欲望の構造なのだ。それを主語の人称を手掛かりに、一人称の「わたしは愛する」、二人称の「あなたを愛する」、三人称の「あの人を愛する」という順で考察してみよう。それぞれの愛は、どのような欲望の構造を背景としているだろうか。

エロスの定義

 一人称の「わたしは愛する」という行為を哲学の問題として最初に深いところまで考察したのはプラトンである。プラトンは『饗宴』において、食事の場に集まった親しい友人たちに、愛の神としてのエロスを称えるスピーチを順にやろうではないかと誘う。そして友人たちはそれぞれに自分のエロス像を披露してみせるのである。

 ギリシアではエロスは神として考えられていた。エロスの役割は、人間たちの心のうちに愛情をかき立たせ、人々の間に親しい結びつきをもたらすことにある。男性が女性と、男性が他の男性と結びつくのは、何よりも愛情の力によってだからだ。家庭も社会も、「饗宴」のような場も、愛が存在することによって初めて生まれる。

 このことをエリュクシマコスは「この神こそ最も大なる力を有し、われわれにあらゆる幸福をもたらし、われわれ人間を相互の間においてのみならず、われわれよりすぐれた神々との間においても交わりをなすことが出来、かつ親しきものであることが出来るようにする」[1]と表現する。

 エロスはまず、親しき交わりと社会を構築する基本的な原理として見定められる。次にアガトンは、この神はきっと美しい神に違いないと考える。「エロスは第一に自分自身が最も美しく、最も善なる者であって、しかる後にその他のものに対してその他のそのようなものの原因者である」[2]というわけだ。エロスは美しいものを愛する心を人間のうちに培うのだから、きっと美しいに違いない。

 このエロス賛歌に正面から異議を唱えるのがソクラテスである。もしも今、健康であるならば、健康であることを願うことはないだろう。富をもっているならば、富を望むことはないだろう。だから何かを愛するということは、自分に欠けているものを欲望するということではないだろうか。欠如こそが、人々を愛へと向かわせる力に違いないというのが、ソクラテスの論理である。

 だからソクラテスのエロスの定義は、「エロスとは第一に、あるものの恋であり、第二には、彼に現在欠乏しているところのそれらのものの恋であるにほかなるまい」[3]ということになる。だとするとエロスは通説とは反対に美しき者ではなく、美しき者に憧れる醜き者だということになる。

欠如としての欲望

 プラトンが明確に定義したこのエロスの定義は、愛の原動力である欲望の性質について重要なことを語っている。人間は自己に欠如したものを欲するのであり、その欲望が充足すると、もはやそれに動かされることはなくなる。これは人間の生理的な欲望のありかたを、きわめて巧みに語ったものだ。

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「みずからの欠如を満たす狂おしい愛」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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