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愛するということは、自分の精神と身体の喜びを拡大させるものを好むこと

わたしは愛する【3】

2010年7月8日(木)

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(「わたしは愛する【2】」から読む)

内在と超越

 すでに考察してきたように、ストア派の哲学には、自分に親しいもの(オイケイオーシス)を愛すること、自己を愛することから始まる道徳の考え方を示していた。これは外的な価値観、自己から超越したものに依拠する必要がないという意味では、「内在」の哲学の考え方と呼べるだろう。外部にその権威をもたず、誰もが自分の心にたずねてみるだけで、納得できる考え方なのだ。

 この超越に対する内在という概念は、すでにプラトンが提起していたものだった。プラトンはごく初期の対話編『エウチュプロン』において、敬虔とは何かという問いを提起している。そしてそれは「神が愛するものだ」という答えを聞いて、「神が愛するものが敬虔なのか、それとも敬虔だから神が愛するのか」と問い掛ける。そして「〈神に好ましいもの〉は神々に愛されるから、ちょうどこの〈愛される〉ということによって、〈神に好ましいもの〉であって、〈神に好ましいものである〉から、そのことによって愛されるのではない」[1]ことを指摘している。

 これを善の問題として考えてみれば、善は善であるから神に愛されるのか、神に愛されるからそれは善と呼ばれるのかという問いに言い換えることができる。人間があるものを善と考えるのは、それが神が善いものとして愛するから、そして神に命じられたからなのだろうか。それともそれがそもそも善いものだから、神もまたそれを善として愛するのだろうか。第一の立場であれば、善とは何かということは、人間を超越したものによって規定されていることになる。第二の立場であれば、善とは何かということは、善そのもののうちに内在しているのであり、それを神が是認するということになる。

 西洋の形而上学は、プラトンのイデア論と、啓示宗教としてのキリスト教を前提としているために、善の由来を人間を超越したものとして考えがちである。善を内在的なものとして考えるのは、なかなか苦労なのだ。ストア派の哲学はその意味では、善を内在的なものとして考えるための貴重な一歩を記したことになる。

スピノザのコナートス(自己保存の努力)

 この内在の哲学の流れは、近代の初期にいたって、道徳論を超えた次元で、社会契約論を通じて政治哲学の重要な流れを構築することになる。その一つの端緒を示しているのが、破門されたユダヤ人であり、デモクラシーの思想の重要な端緒を示したスピノザである。スピノザは人間が何かを愛するのは、それが善だからではない、人間が愛するからこそ、それが善と呼ばれると指摘する。スピノザは善とは何かについて、次のように考える。

 まず存在するすべての物の重要な特性として、自己保存を願うことがあげられる。「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」[2]だろう。存在するようになったすべてのものは、みずからの存在を維持しつづけること、自己を保存することを望み、そのために努力しつづけるだろう。それが存在者の「現実的な本質」[3]なのである。

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「愛するということは、自分の精神と身体の喜びを拡大させるものを好むこと」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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