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愛する相手との関係でこそ感じる「他者」

わたしは愛する【15】

2010年10月14日(木)

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「対他・存在」としての愛

 すでにみてきたように、サルトルは「第三者なるものの出現は、二人の愛の破壊である」[1]と語ったのだった。それは第三者が登場することで、二人の親密な世界が破壊されるからという意味だけではない(破壊されるのはたしかなのだが)。愛する者どうしが親密な世界に閉じこもっているつもりでいても、つねにそこに第三者が存在するからだ。

 それは「わたしたちが二人きりで、わたしの部屋にいて、事実として〈二人きり〉であるとしても、それは権利として〈二人きり〉であることではない。実際に誰も私たちを見ていないときにも、私たちは、すべての意識個体にとって存在している」[2]からである。愛する者どうしも、自らの意識から他者の存在と、他者にたいする自己の存在を拭い去ることができないからである。

 愛することは、他者に向かう自己のありかた、すなわち「対他・存在」というありかたの一つの極点である。街路で擦れ違う他人としてでなく、自己の存在をかけて、他者と向き合うからだ。愛することは、「〈対他・存在〉の根本的な様相」[3]という意味をもつ。しかし「愛はその〈対他・存在〉のうちに、それ自身の破壊の根をもっている」[4]のである。愛する相手はつねに自己にとって他者でありつづけるからである。

愛する相手の顔

 この愛のもつ他者に向かう姿勢を、サルトルのように愛の自己破壊の姿としてではなく、道徳性という視点から考察したのがレヴィナスである。レヴィナスもまた愛がその官能の関係のうちにつねに閉じようとする傾向をそなえていることを指摘する。「官能をつうじて恋人たちのあいだに確立される連関は根底的に普遍化に逆らうものであり、社会的連関とは正反対のものである。恋人たちの連関は第三者を排除する。恋人たちの連関は親密さ、二人の孤独、閉じた社会にとどまる非公共的なものの典型である」[5]からである。

 恋人たちはこの愛する関係のうちで、自分たちのことだけを考える。「愛は二人の快楽、二人のエゴイズムである」[6]からだ。しかし恋人たちはこのエゴイスティックな快楽の享受のうちに完全に閉じこもることはできない。「愛はこの自己満足のうちで、自己から遠ざかる。いかなる意味によってももはや照らしだされることのない他性の極み、露呈され、冒涜されたこの深みの上にあって、愛は眩暈を覚える」[7]のである。

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「愛する相手との関係でこそ感じる「他者」」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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