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尖閣ビデオ流出と延坪島砲撃の報道が示すメディアのあるべき姿

“幻想”が生む境界、そして「殺して忘れる社会」の果て

2010年12月1日(水)

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 先日、久しぶりにテレビに出演した。11月20日に放送されたフジテレビ早朝の「新・週刊フジテレビ批評」で、番組後半にあるテレビの現在や未来を様々な角度から掘り下げるコーナー「Critique TALK」。コメンテーターを務めるジャーナリストの江川紹子さんを交えて、わずかの間、話した。

 テレビは長らくご無沙汰だったが、そこで話した内容はテレビ以外のメディアを通じて訴えてきたことの延長上にある。

 それぞれのジャーナリズム・メディアはそれぞれのメディア特性の違いを踏まえて、使い分けられ、メディア・システムの総体としてジャーリズムの公共性に貢献すべき。そのような趣旨を、言葉を取り代えつつ述べたに過ぎない。ただテレビメディア自身によるテレビ批評を許される番組であったので、当然テレビに軸足を置いた話になる。ここではその時に話したことに、その後に考えたことを加え、議論をしてみたい。

マスメディアのネットへの不信感

 例えば、その日の番組でも日中の国境線解釈が錯綜する尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件のビデオ流出事件が言及されていた。

 個人的には「もしも」と反実仮想実験をしてみたい。もしも、あの映像が、通信社や海外のテレビ局から提供された映像であったら、報道の流れはどうなっていたか、と。

 歴史にイフはないが、もしもそうだったら、国境を巡る本格的な内容の議論へ社会はよりスムーズに入れていたのではないかと思う。

 ところが、流出先がインターネット上の動画配信サイト「YouTube(ユーチューブ)」だったために、「インターネットの動画サイトへの流出」という断りを必ず付けてテレビは映像を流した。これはテレビを中心とするマスメディア側の、ネットメディアに対する距離感を象徴する部分ではないか。

 尖閣流出事件の後には読売新聞のコメント取材も受けたが、記者は「マスメディアではなく、YouTubeが流出先になったことに驚き、また幻滅した」と述べていた。驚くのは自然な感情かも知れないが、幻滅の感情まで喚起されたのは、マスメディアが流出の受け皿として選ばれなかったことへの「自信喪失」があり、その背景にはネットメディアは二流だというメディア観が控えているのだろう。幻滅は二流メディアに出し抜かれたということなのだ。

 動画投稿サイトを含め、いわゆるソーシャルメディア系ネットメディアをマスメディアが取り上げる時、そこが匿名による誹謗中傷や無責任で事実無根の情報が氾濫するダークな世界であることを強調するのが定石。そうした経緯があるがゆえに、今回もまず投稿先メディアについて明示しなくては、その映像が使えなかった。

 一方で、ネットメディア側にもマスメディアへの反発がある。

 例えば今回の事件では40分間の長さの動画の流出があったのに、なぜテレビはそれを編集して放映したのだと批判される。すべてを見せて国民に判断すべきだと主張される。

 この指摘は正鵠を射ているように見えて、実は議論すべき論点を外している。

 まず一点目、今回のビデオ映像で、たとえそれがノーカットであっても何が分かったのかということがある。衝突の瞬間は確かに写っていた。

 しかしその状況を理解させるのは、恐らくカメラを保持していた当人が語り、画面の外から聞こえてくる「実況」の言葉だった。「こちらに接近してくる」「今、衝突した」等々の説明があるからこそ、何が起きたのか理解できるのであり、映像だけでは実は何も分からない。映像メディアというのは雄弁なように見えて、しかし、そこから意味を汲み取るには言葉の助けが必要だ。

 今回の映像はYouTube上に流出したので世界各国でも視聴できたはずだが、日本国内ほど大きな話題にならなかったのは、政府の対応の経緯があっただけでなく、日本語のナレーションが映像の意味を理解するうえで必須であり、海外ではそれが映像理解のうえでの大きな障壁になったからではなかったか(もしも同時に複数の視点から撮影された映像があれば、映像の比較考量で状況が分かった可能性もあったが、そうではなかった)。

 それを考慮すると、判断に必要なのはノーカットの映像そのものではなく、ナレーションを含む映像に意味づけする情報が、もう少し豊富にあればということだったようにも思う。

 しかしそれは編集の結果、本当に減少していたのだろうか。そこで二点目の論点、つまり編集という作業そのものの議論に移るが、それを考えるうえで、こんな例を引いたらどうだろう。

 統計処理を行う社会調査でも、対象になる全員を調べる「悉皆調査」は莫大なコストがかかるし、現実的に実施不可能なこともあるので、普通は代表を選んで標本調査を行う。標本調査は選んだ標本の代表制が的確であれば、つまり「全体」を正しく反映した「部分」であれば、悉皆調査に劣らぬ正確な結果を導く。

 編集も同じだ。40分間の映像の内容を過不足なく伝えつつ、2~3分間のテレビ番組内で使用されるサイズに縮尺(まさに尺を短くする)することは可能だろう。特に放送時間が厳しく限られているテレビはそうした縮尺技術を強く必要とするメディアであり、だからこそコンパクトに情報を一目瞭然な形で提供でき、それを基にして視聴者の判断を仰げる特性も持っている。

 しかし、今回の流出騒動では、そうした編集による縮尺という手法が、もはや支持されなくなっている事情を窺わせた。自分たちが判断をする前に放送局が恣意的な判断を介入させて映像を編集してしまったと考える。事前に介入したこうした「恣意的」な編集には、自分たちが正しく判断する権利を奪う、事前検閲的ニュアンスが込められている。つまり問題は編集という技術そのものではなく、その技術の運用に対する不信感なのだ。

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松﨑 曉 良品計画社長