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正しい返礼は正義なのだろうか

贈与する[3]――正義について考える【4】

2011年1月6日(木)

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贈与と返礼

 しかしそもそも贈与というものは、返礼を期待しないものではなかっただろうか。レヴィ=ストロースが語っていたように、両親が子供にサンタクロースの存在を信じさせるのは、子供からプレゼントへの「お礼の言葉」を聞きたくないからだと思う。「お礼ならサンタさんに言いなさいね」といいうのが、そのようなときの親の決まり文句だ。

 アリストテレスの定義でも「贈与とは返す必要のない譲渡である」とされていた。何かをプレゼントするとき、ぼくたちはほんとうなら、できるかぎりその返礼も、感謝の言葉も聞かないですめばと望んでいるのである。相手に何を贈れば喜んでもらえるかと一心に考えて、贈りものをする。そして相手が純粋に喜んでくれればくれるほどの嬉しいものだ。それが相手からすぐに返礼をされたのでは、贈物をする喜びは消えてしまうのではないだろうか。贈物をするには、意外な難しさがある。純粋な贈与というものは思ったほどに簡単なことではないからだ。

 具体的な例で考えてみよう。ぼくがあなたに何かを贈るとしよう。結婚式であれば、結婚祝いを贈るだろう。そして相手は何か返礼をしてくるに違いない。これはごく平凡な風習である。これは風習にすぎず、ほんとう意味での贈与ではないに違いない。「与える」ということは、返礼を「受けとる」ことを予定してしまうと、たんなるしきたりになってしまうだろう。

 だからぼくがあなたにほんとうの意味での贈りものをしたいならば、それはあなたが贈物を「受けとる」理由がまったく思いつかないような機会を探す必要があるだろう。ということは、晴れの日ではなく、ごく日常の一日に、とりわけ何かを受け取る理由のない日に贈与することが望ましいだろう。

贈与のもたらす困惑

 しかしこの場合には、相手は困惑するだろう。この困惑にはいくつもの理由があるだろう。第一に、返礼するための基準がない。結婚式の贈物や葬式の香典には、慣例となった返礼の額の基準ができている。しかしきっかけとなる理由のない贈与では、こうした基準が存在しない。同等のもので返礼したならば、相手は憤慨するかもしれない。もっと高額のもので返礼したならば、相手は心に負担を感じて、その負担を消すために、さらに贈物をしてこないともかぎらない。ごく小額のもので返礼したならば、自分の心に負担が生まれる。贈物をもらうような納得のできる理由が思いつかないからだ。

 こうして第二の困惑が生じてくる。きっかけのない贈与をうけたときには、その相手の気持ちを詮索せざるをえなくなるのである。いったい相手はどうしてこの贈物をくれたのだろうか。この贈与が男女の間で行われたならば、受け取った側は相手の「下心」を考えねばらならなくなる。そうでなくても、相手はこの贈物をすることで、どんなことを期待しているのかと頭をめぐらさざるをえなくなるのである。

純粋な贈与は可能か

 こうして、ぼくがあなたにごく純な気持ちで、贈りものをしたとしても、それはあなたを困らせるだけかもしれない。そしてそれまで良好だった仲が、崩れてしまうかもしれない。純粋な贈与は、ぼくがそれが純粋な贈与ですと言ったところで、はたして純粋なものとして受け取られるか、あるいはほんとうの意味で純粋なものであるかどうか、保証してくれるものはないからだ。相手の気持ちにとっては、ぼくからの贈与は純粋な贈与になりえないのである。

 そもそも贈与をしたときに、返礼を期待していたならば、それは純粋な贈与ではないだろう。ぼくがあなたにあるものを贈与して、あなたの愛を期待していたならば、それを贈与と呼ぶ人はいないだろう。ぼくが仕事相手にあるものを贈与して、ぼくにたいする特別な恩恵を期待したならば、それは賄賂に近いものとなる。それを贈与と言う人はいないだろう。そのときに贈与は、形をかえた交換になっている。贈物で何かを返礼として受け取ろうとするならば、それは愛を金で買うようなさもしい行為になってしまうだろう。あるいは以前にうけとった恩恵への返礼として、あるいはかつてのぼくの犯した罪の償いとして贈与がされるならば、それは贈与ではなく、返済にすぎないのものとなるだろう。これを贈与と呼ぶ人はいないだろう。ぼくにとっても、ぼくの贈与は純粋な贈与になりえないのである。

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「正しい返礼は正義なのだろうか」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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