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資本主義社会で消滅した至高性

贈与する[9]――正義について考える【10】

2011年2月17日(木)

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至高性

 バタイユは、この自己の贈与が聖なるものと至高者を生みだすと考えた。自己を死に向かって投げ出す者が、至高なる者となるのである。しばらく前にヘーゲルの主奴論を紹介した。主人と奴隷が成立する以前に、二人の自由な人間が生存を掛けて戦うのである。そしてみずからの命を贈与することを恐れなかった者が主人となり、それを恐れた者が奴隷となったのである。

 バタイユは自己の贈与を恐れることがなかった者が、この主人の地位に立ち、至高者となると考える。「主人の姿勢は至高性を含んでいる。そして生物学的な理由とは関係なくして主人が引き受けた死の危険は、主人の至高性の結果なのである。動物的欲求の充足を目標とせずに戦うということは、まずそれ自体で、至高であるということなのである」[1]

至高性と西洋の歴史

 バタイユはこの自己の贈与を軸とする至高性を考えることで、西洋の歴史をたどることができると考える。まずバタイユは、この至高性は二重性を帯びたものとなると考える。聖なる至高性と戦う王の権力の至高性である。自己の贈与はそもそも聖なる至高性を生みだすことができるものである。「すべての聖なる現実は、人間にみずからを無条件に贈与するように求めながら、人々を結びつける」[2]性格のものだからだ。

 そして聖なる供犠が、自己の贈与を反復させる。「自己の贈与から生まれたものは、たえず自己の贈与によって養われる必要がある。供犠が聖域を作りだし、新たな供犠が聖域に向かって流れ、聖域は供犠の流れと同じものとなる」[3]とバタイユは考える。この聖域を管理するのが聖職者であり、聖職者は、行うこととは無関係に、「自分が存在しているそのありようゆえに」[4]至高者である。これは非力な至高性、それゆえに純粋な至高性だった。

 アステカの社会は、供犠を司る聖職者が至高者として支配する社会である。この社会では富を蓄積するより浪費することを、自己の贈与をつづけることを重視する。王もまた気前のよさを発揮する。「至高の王は巨富を所有しており、これを自らの民の偉大な栄誉のために、芸術と祝祭と戦争のために、支出しなければならなかった。気前よく富を浪費する必要があり、ときにはゲームに負けることも必要だった」[5]

軍事社会の至高性

 これにたいして戦う王の至高性は、自己の贈与を回避する道を作りだした。この社会は「戦争の企てに専念し、非力さから権力へと移ってしまったのであり、そのかぎり、例えば軍事的に強力になった王は、儀式における処刑を、自分を供犠の生け贄とすることを、拒否して、代理の犠牲を提供することができるようになった」[6]のである。逆説的ながら、自己の贈与を拒否しながらも、至高者であることができるようになったのである。

 こうして軍事社会が誕生する。この軍事社会は、他国を征服し、富を蓄積する社会である。「それは比較的穏健な社会であり、目的を未来に託する、分別くさい企業原則を風習のうちに持ち込み、そして供犠の狂気を排斥する。奴隷の大量虐殺によって表象される富の浪費ほど、軍事組織化と反するものはない」[7]

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「資本主義社会で消滅した至高性」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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